内山さんの娘さんが工場に来て下さいました


今戸焼の陶工、内山さんの娘さんが工場に御煎餅を買いに来てくれました。
2014年4月のブログで御話しした通り薪窯を使う最後の今戸焼の陶工、内山氏は御病気の為突然この世を去りました。
納骨の日焼香に伺ったのですが、奥様と娘さんの悲しみに直面し身の置き場が無かった事を思い出します。
焼香の後、帰り際に御自宅の玄関、靴箱の上を見れば私と内山さんでコラボした鏝地蔵が飾ってあるでは有りませんか、内山さんの人生の最後の仕事がそして今戸焼最後の仕事が私とのコラボだった、そして私との仕事を気に入ってくれていた何よりの証です、私は本当に涙が止まらなくなり帰り道が永遠に感じられたものです。
今日娘さんは「葛飾今戸焼の名を後世に残してくれて有難うございます」とおっしゃいました。
本当にうれしかった、そして目頭が熱くなるのを抑えられませんでした。

     2015−7−11

以下は2014年4月30日のブログ

神田淡平の定番、本格手焼き煎餅今戸焼は古の製造法を今日に伝える弊社自慢の商品です。
この手焼き製法を支える重要な道具が今戸焼の鏝なのですが葛飾区青戸に有る今戸焼の陶工にお願いして作って頂いたものでした。
江戸時代に隅田川沿い現在の台東区今戸の地に興った今戸焼ですが明治の世の都市化、それに続く関東大震災の影響から薪窯を使う伝統的な製法の今戸焼は葛飾区青戸の地、中川沿いに移って来ました。
葛飾の今戸焼は昭和初期には植木鉢の生産などで忙殺を極めましたが平成の世になり中国製などに押されて廃業の危機に有った様です。
江戸の伝統を絶やしてなるものかと淡平と今戸焼のコラボレーションが始まりましたが、伝統的今戸焼最後の陶工である内山氏も先年お亡くなりになり残念な気持ちでいっぱいです。
生前製作頂いた鏝の在庫は十分に有りますから今後百年以上にわたり葛飾今戸焼の名を残せる事がせめてもの恩返しです。

以下は2009年のブログ

今戸焼煎餅 紫は葛飾今戸焼最後の陶工、内山氏と淡平のコラボレーションにより誕生しました。

今戸焼煎餅のパンフレット資料とその下に数年間撮り溜めた葛飾今戸焼工房、原製作所の写真を大画面で掲載します。
都内での薪窯製陶は環境問題などから存続が危ぶまれています、貴重な資料として原製作所の様子を永久保存いたします。

昭和初期の淡平

妥協のない製造法と原材料を吟味することで手焼煎餅紫は生まれます。
国産うるち米100%の生地に富士山麓に湧く伏流水を仕込み水として、添加物を一切使わない穀だけでじっくりと手造りされた醤油を纏わせた格別の逸品です。
使用する醤油は、一度出来上がった醤油を食塩水の代わりに糀の中に入れて二度目の醗酵・熟成を行い、米糀等の原料を追加して出来上がります。
二年以上の歳月と 二倍の原料を使用した醤油の中の最高級品です。




葛飾今戸焼き鏝使用

今戸焼とは江戸の焼物を代表するひとつで隅田川西岸の今戸の地(台東区)で盛んに焼かれていました。
今戸焼は土人形で有名ですが他に火鉢や植木鉢などの日用品の生産の他、瓦やレンガなどを生産していたようです。
今戸焼のブランドが確立したのは江戸陶芸の流行と大衆文化が隆盛した化政期頃(1804〜1829)のようです。
やがて江戸下町の都市化や大正時代の関東大震災による被災から窯元は中川沿い現在の葛飾区に移動して来ました、中川沿いでは最盛期30を超す窯元が盛んに窯煙を上げていましたが現在ではその葛飾区でも都市化が進み昔ながらの薪窯を使う正当な今戸焼を継承する窯元は一つとなってしまいました。

   

   
「江戸名所百景」 歌川広重         今戸焼鏝「葛飾区郷土と天文の博物館」蔵
    隅田河橋場の渡しかわら窯    
  

囲炉裏端で焼き上げる煎餅製造に欠かせないのが今戸焼の焼き鏝です淡平では今戸焼最後の陶工に特にお願いして焼き鏝を生産して頂いております。
淡平本格手焼煎餅 紫は古の煎餅製造法と風味を今日に伝えております。




今戸焼煎餅は株式会社淡平の登録商標です

          
以上 今戸焼煎餅案内


葛飾今戸焼工房、原製作所
























かわらけ製作の土と轆轤



葛西城出土のからわけ 鎌倉時代



鎌倉時代のかわらけの写し













煎餅焼鏝



鏝地蔵























































鏝地蔵とほうろく