「煎餅の歴史」
■醤油煎餅の色々■

 小麦粉の煎餅より登場が遅かった醤油煎餅は、いかにも関東の味だ。
 弘法大師が開いた西新井大師の門前町に江戸時代から煎餅屋をはじめた『浅香屋』と浅草のすし屋横丁の『入山せんべい』は昔風の構えで手焼きの作業を守っている。ことに『入山せんべい』は、備長炭で手焼き職人が長火鉢に向かい合って大勢で一日焼きつづけている。店内には紺の大きな陶器の壷が並んでいて、焼きあがった煎餅をこの中で保存する。この光景はまさに江戸であり、江戸職人図絵を見るような懐かしさと見事な風格と江戸庶民のパワーを見るようだ。醤油の深い味はこの店独特のもので、品のいい店構えといい共に横綱格だ。
 店歴は古くはないが浅草仲見世の『日の出せんべい』も、店頭で焼いていて香ばしい香りが道まで漂っている。道端に赤いもうせんの床机が置かれ、そこで食べられる。
 江戸時代から多くの参詣者で賑わう深川富岡町の深川不動の門前の『其角』は、胡麻、海苔、醤油、辛子、抹茶、砂糖などの種類が並んでいる。醤油、抹茶、砂糖の煎餅の直径二センチほどの小型のものと詰め合わせた"さざれ石"と名づけたものがある。
 見るからに伝統の味、格調ある重厚な感じと食べごたえのある神田の
『淡平』は手作りの本格派といえる。先祖は葛飾郡淡之須に住んでいた武士。店の工場は今でも葛飾にある。先代は俳人で、風雅な味わいの煎餅の製造をと、独特の"淡手煎餅"を創案した。それが各方面へ広がっている。
 特別に吟味した純正の材料のみを使い、煎餅本来の素朴な手作りの味を保持したいと、ひたすら古来の伝統的手法で、多少芯を残したり、乾燥の度合いを調節するなどして色、香り、味とも他の追随を許さず、良心的で格調の高い製品を頑固なまでに守り続けている。
 大きめで厚みのある丸煎餅は、十九種。『淡平』独特の醤油味の醤油煎餅、伝統の醤油味の生醤油煎餅、醤油の重ね焼きで黒々とした黒子煎餅。特選もろみ醤油の味わいのいろりは、日本の醤油文化を彷彿とさせる。胡麻煎餅、もろみ醤油に極上海苔を巻いた田村巻き、国産の最上質の胡麻を使った胡麻煎餅、海苔を入れたのり煎餅、七味をふんだんに使った山椒煎餅、一味入りの辛子煎餅、一味たっぷりの元祖激辛の特辛子煎餅、わさび煎餅、にんにく煎餅、真っ黒のいか墨、金箔貼りんきんなり、桜の塩漬けを飾った季節だけのさくら煎餅。ザラメ煎餅は、砂糖が落ちないように、琉球の黒糖とグラニュー糖を使うなどの工夫がある。
 この工程を納めたビデオを店内で見せている。特別に仕入れた粳米を粉にするところからはじめる。蒸してから搗いて餅状にする。のしてから煎餅の形にして乾燥させる。さらに数日寝かせ、焙炉で12時間あたためてから焼いて乾燥させる。季節によって異なるが、のべ二十日間はかかるそうだ。焼くときに空気が入ってふくらんでく箇所を一枚一枚キリで突いてそれを防ぐ。根気と愛情で古式の製法を続けている。
 根岸の『手古奈』は、本店が千葉の手古奈にあることが店名の由来。厚焼きが評判で、醤油だけのほどよい辛さが万人向き。
 煎餅の店は多いが、谷中あたりには昔ながらのガラスの大きな器に入れて売る店があり、いかにも江戸らしい雰囲気を残している。
 江戸の庶民は、四季折々の遊び、川遊びや花見を好んだ。そんな生活行事から生まれた桜の形に仕上げた"花見煎餅"は昔からなじみのある代表的なものだ。
 糯米を使った掻餅、略しておかきをあげておかなくてはならない。関西に多く見られるのが、東京で"おかき"が有名なのは『入船堂』。創業は明治四十三(一九一〇)年。独特の焼き方で、香りがよく軽い歯あたりが特徴。"小磯巻き""さざれ石""小柴"など小粋で品のよいものが揃っている。小判型の"千両"も江戸らしい。