レンズ磨きの達人 桁違いの職人技が求められる半導体露光装置

「高い精度を出すにはピッチをうまく使いこなすことが必要です。高精度なものはレンズ材質によってピッチの硬さも変えます。ピッチは我々メーカーのオリジナル。レンズメーカーによって硬さが違うと思います。真っ黒で何がなんだかわからないものですが、内容は絶対に他社には教えません。想像ですが、ニコンさんはニコンさんのちょうどいい硬さがあるのだと思います」
  ピッチは常温では硬く、手で触っていると少しネバネバしてくる。表面はタイヤのトレッドのように網状の凹みがあり、研磨剤の流れをよくしてピッチの冷却効果の流れをよくしてピッチの冷却効果を得ると同時に、研磨剤が一様に行き渡りレンズの一部分だけが磨かれるのを防ぐ仕組みになっている。
  高精度が要求されるケースでは網状のものが多く使われる。
「ピッチは研磨中に作り直すケースも少なくありません。削れて形が崩れますから。また、研磨剤が付着して硬くなるので削り取ることもあります。すばるのレンズでは2回作り直しました。ピッチの修整は磨く人それぞれで違います。影響を受けた先輩のやり方が後輩に受け継がれていくのでしょう」
  ノギスやマイクロメーターで測れない領域の精度を出すために、研磨の途中でニュートンリングを頼りに、ピッチの形も研磨剤も少しずつ修整を加えて磨いていく。研磨そのものは擦り合わせでしかないが、経験から編み出された技と勘によって精巧な仕上がりにつながる。
  形状が設計値どおりに磨かれると同時に、レンズ表面も最近は5Å(オングストローム)の滑らかな精度で磨き上げられる。この表面の粗さと透明感はおおよそ目視でわかるという。
難しさは一様ではないが、半導体露光装置は桁違い
「すばるのお椀型の第1レンズは直径が52cm、鏡筒部も含めた直径が60cm。凸面、凹面、円面合わせて約1ヶ月くらい磨きました。レンズの直径に対し曲率が小さいものを我我は『深い』と呼ぶのですが、深いレンズは中心は磨けても周辺は中心と同じようには磨けません。外周が透明にならないうちに中心厚が磨き上がってしまうのです。そこで曲率を大きくしたレンズを用意して外周を磨きながら中心を磨いていきます。
  曲率をどのくらいにするのかは磨く人のノウハウです。磨き上げるまで時間がかかったのは、曲率を大きくして磨き捨てる取りしろをとったためで、すばるでは通常の3倍、100分の7mm余分に取りしろを作りました。
  研磨するには難しい形でしたから要所では付き切りの作業になりました。もし作り直しとなるとトータルで半年はかかりますので。集中して一発勝負で磨きました」
  じつは、この磨く作業の前にコンピューターに勝る職人技があった。たわみの問題である。
  「大きいレンズは研磨機に固定するときにどこを支えればたわまないか、あるいはたわむかという問題が生じます。コンピューター・シュミレーションで予測できますが、結論を得るまで時間がかかります。しかし、経験のある職人がいれば答えは一瞬ででてくるのです」
 
香取さんは大口径レンズだけではなく、CDやMDプレーヤーのピックアップに使われるような小さなレンズも磨いてきた。
「直径3mm、曲率半径2mmの小さなレンズも作りました。これも難しかった。微妙な手の感覚が大切になります。研磨機とは反対に下側で研磨皿がグルグル回っていて、上から専用工具の先端に光学ガラスを付けて磨くのです。これも外側からピカピカに研磨していきますから、凸面は直径を大きく取り余分に磨いていくやり方です」
  専用工具を握る手首がしなやかに動く、それはまさに手業だ。
「難しさは一様ではありません」と香取さんはいう。
「半導体露光装置のレンズ研磨は桁違いです。球面の形状精度、表面の滑らかさ、曲率、中心厚、偏心、どれも非常に厳密です。半導体のチップ上の回路線幅は0.11〜0.12ミクロン。つまり、集積回路図面を縮小投影して焼き付ける露光装置の焼き付け線幅も0.11〜0.12ミクロンでなければなりません。その解像力がないとレンズとして役に立ちません。
  集積回路を焼き付ける装置(照明系、撮影系などを含む)だけでもそのレベルのレンズを約100枚くらい使っています。
  全部が全部手作りではありません。製造体制ができていますから。でも大変です。1枚でも規格から外れては駄目なのです。半導体露光装置のレンズ研磨は別格です」
  ‘70年ごろの半導体製造装置立ち上げから手がけ、当初は光学性能を出すことに悩まされたという。
「内容までは覚えていませんが、寝ているときによく夢を見ました。気になることが頭にあるとパッと目が覚めてしまうこともよくありました。相当緊張してやってきたと思います」
  このあたりで、我々の身近な一眼レフカメラのレンズの話を伺おう。数値も大切だろうが、よくいわれる「レンズの持つ味わい」は磨きに関わるものなのか。
「レンズ磨きのアプローチに差はありません。味わいそのものは、レンズ研磨だけでなく、レンズ表面につけるコーティング(反射防止膜)、鏡筒加工、組み立てなど総合的な加工技術、技能の集約です」
時代の要求に応える周辺技術を身に付けて研磨の技を習得する
 レンズ研磨の技能はすべての曲率基準となる原器が作れればひとつ極めたことになると考えるのが一般的な見方だ。
「原器が作れるだけでは駄目です。製造計測技術も理解することが必要なんです。3D CADとかが入ってくる時代です。そうした考え方を知っていないと、将来、苦労するかなと思うのです」
  その道一筋を、○○ばかと形容するが、磨きバカでは駄目だということなのだろうか。
「磨きバカになるのも相当勉強しないとなれません。技能プラス周辺技術を知ることが大切なのです。
  ひと通り磨けるようになるには最低でも5年。なぜ5年かといわれると困りますが、我々の職種にも技能検定があります。2級が職業課程の高校卒業で実務が2年、1級は2級合格後5年間の実務経験があれば受験資格が得られます。それを考えると必要な技能取得期間かなと」
  その期間で難しいという半導体露光装置のレンズも磨けるようになりますか。
「ウーン、判断基準が身に付かないと無理ですね」

  すばるが完成した後、香取さんは関係した仲間たちと自費で見に行ったという。マウナケアの2800mにある休憩所で望遠鏡を覗いていて、長時間露光で撮る天文写真の撮り方はおおよそ見当がついた。
「昨年、定年退職して人材育成で再雇用されましたが、会社を辞めたら趣味で反射式の望遠鏡を作り始めようかと思っています。オリオン座の星雲やアンドロメダ大星雲を自分で作った望遠鏡で覗き、写真も撮りたいんです」
  “自分のために最高の天体望遠鏡を作りたい”と語る香取さんの瞳は小学生のころに戻っていた。