レンズ磨きの達人 小学生のとき見た夢が40年後に花開く

 ハワイ島マウナケア山頂に1999年に国立天文台によって建設された天体望遠鏡「すばる」。直径8.3mの主鏡は、ガラス食器『パイレックス』で知られるコーニング社の低膨張率ガラスをアメリカの大型望遠鏡専門メーカーのコントラベス社が研磨した反射鏡だ。
  しかし、反射望遠鏡にも光学的にいくつかの問題があり、それを克服したのが直径60cm、長さ69cm、重さ170kgの“巨大なカメラシステム”主焦点補正光学系。淡い小さな星の光も天文写真のように描き出す、いわば「すばるの心臓部」を制作したのがキャノンだ。直径52cmのお椀型の第1レンズ、直径30cmクラスの非球面レンズなど、高度な光学技術と同時にレンズ研磨の職人たちの技能なしでは、この世界的に有名な天文台は意味をなさなかった。レンズの研磨=磨きこそがレンズ作りの命だからだ。
  レンズ磨きそのものは機械でなされるが、そこに介在する職人には、経験と勘が要求される。時間をかけて身に付けた「間合い」こそが職人技なのだ。
すばるのレンズ制作に携わったレンズ磨きの達人=香取良政さんにお話を伺い、その奥義に触れる。

「小学校の5年生だったと思いますが、理科の先生が天文好きだったんです。先生は望遠鏡を持ってきて、これは何、あれは何と説明しながら望遠鏡を覗かせてくれた。あのころからですね、いつか望遠鏡を作ってみたいなと思ったのは」
  少年のときに夢見たものが約40年近く経って、すばるの主焦点補正光学系の大口径レンズ研磨という形で花開いた。しかし、そもそもキャノンに入社した経緯は従兄の影響だったという。
「従兄がキャノンの組立課にいまして、仕事がとても忙しいから、高校進学もいいけれど、早く手に職をつけて一人前になるのもいいことだと、入社を勧められました。それがきっかけです。望遠鏡を作ってみたかったので、入社時にレンズを作らせてほしいと希望したんです。そうしたら希望どおり配属されて」
  硝子課でレンズ研磨を始めると、仕事の厳しさが見えてきた。
「昔の先輩方は働いてナンボの世界の人が多かった。今みたいに手取り足取り仕事を教えてくれません。教えたかったかもしれませんがしなかった。親切に教えてくれた人もいましたが、仕事のやり方は盗め!という時代でしたから。
  うまく磨けたと思っても一言『ダメ』。理由もいわず『もう一度』『もう一度』で、ずっとひとつのレンズを磨いていました。半年から1年ぐらいそんなことが続きましたかね。
  1年過ぎて『やっとよくなった』といわれたときは、今度は逆に悔しかった。何回も“同じように”磨けていたじゃないかと。今考えると、駄目出ししかない教育だったんですね。いつも同じ品質で磨けるようになれと。時間と余裕があったから人を育てる余裕もあったのでしょう」
  香取さんが入社後、最初に磨いたのはレントゲンカメラのレンズだった。それからカメラ『YSb』のレンズなどを磨き、4年目、非球面レンズ制作のプロジェクトができて、その一員になりキャノン最初のカメラ用非球面レンズ『55mm/F1・2』レンズを磨いた。
  非球面プロジェクトは香取さんにとって転機になった。「お前、残業やらなくてもいいから、夜、学校に行って来い」と先輩にいわれ、同年輩の人たちが卒業するころに定時制工業高校、さらに短期大学の2部に通う。それがきっかけで機械、電気通信を学び、流れ作業で磨くだけの仕事から、開発畑でレンズを磨きながら新しいレンズを作る機械や工具の図面を描いたり作ったりと、周辺技術も押さえられるようになった。
「レンズ研磨にはふたつの目的があります。ひとつは設計値どおりの形状を作り出すこと。たとえば、カメラレンズはひとつの焦点に光を集めるために、『ここにはこういう光学ガラスで、こういう球面カーブ(曲率)のレンズを使います』と光学設計部門が一枚一枚計算して図面を引きます。その設計仕様書のとおりレンズをひとつひとつできるだけ早く作り、性能評価が早く出せるようにするのが、我我の主な仕事なのです。
  もうひとつは純粋にレンズの表面をいかに滑らかにするか、ということなのです」
300年変わらない研磨機で0.03ミクロンの精度を出す
  現代は量産体制が敷かれ、機械によってレンズも研磨されている。レンズを磨くといっても直接、手で磨くわけではない。ガリレオやニュートンが活躍した17世紀には、すでにレンズ研磨機がヨーロッパで作られており、香取さんたちが使う研磨機も300年前から原理・機構は変わらない。

レンズ研磨機:レンズを固定する貼り付け皿、ピッチ(タール成分の蒸留物=アスファルト)を内側に接着した鋳鉄製の研磨皿だけのシンプルな構造。貼り付け皿を回転させ、研磨皿を左右に動かし、レンズとピッチの間に研磨剤(現在はほとんどが酸化セリウム)が入った乳白色の水溶液を流しながら磨く。回転速度はレンズの曲率や直径、材質で変わり、研磨皿への加圧なども同様に変えられる。

「コンピューターによる数値制御の工作機があるんです。最近はX軸、Y軸、回転・・・・とか、6〜7軸ぐらい制御ができます。しかし、このような機械で立体を削ってみると段々状にスジが付いてしまいます。レンズ研磨機は絶対にそうならない。研磨皿を動かしている軸受けが球形なので何軸にも制御できるからです。
  時代を超えるすごい機械を当時の人は考案したんですね。変わったのは動力だけ。私が入社したときは電気モーターでしたが、入社後4〜5年は、ミシンのような足踏み式の手磨き機がありました。大きなレンズは磨けませんが」
  香取さんは、その足踏み式を使ったことがあるという。
「試作セクションでしたからそんな機械がありました。でも我々が最後の足踏み式世代です。うちの会社にはもうありません」
  機械音が響く研磨作業にはメモリなどがない。これでどうやって設計値どおりの形状に磨くのだろうか。
「磨いていく間に設計値にもっとも近づく時間帯があるのです。ある瞬間に設計値との差が0.03ミクロン(μm)の領域になり、さらに研磨すると外されていく。研磨の途中で1〜2回、原器でニュートンリングを見て確認しながら、今から1時間くらいで0.03ミクロンになるとか、ピッチ変化の割合と時間の関係などからその瞬間を予測します。この見極めは経験によってしか身に付きません」
  この“予測”こそ経験と勘がものをいう職人芸のひとつ。たとえば光学ガラスは300種ぐらいあって研磨時間も違う。最近は磨耗度などの研磨データがあるが、昔は硬さを経験的に把握して磨くしか方法がなかった。
  ちなみに、生産ラインの研磨時間は直径15cm程度のレンズならトータルで6時間。始めてから2〜3時間で透明さを出し、最後の2時間くらいで精度を出す。残り1時間は表面を滑らかにする。という具合だ。

ニュートンリング:原器(ガラス製の曲率基準マスター。キャノンには約2千種ある)に研磨中のレンズを重ね合わせ、曲率が一致しないと環状に虹色の千渉縞が消える。大きなレンズでは環ではなく直線に見え、真っ直ぐなほど曲率が一致。