湧田焼

私は琉球の焼物湧田焼の椀をコレクションしている。
10年以上になるがそこそこ体を成して来たのではないかと自画自賛。
沖縄骨董は本土の業界に比べれば産声を上げたばかりで、まだ海の物とも山の物ともつかない処がありますが骨董新参者の私が偉大なる先人数寄者のまねをして天下の名品を欲しがったところで知力財力人脈で敵うはずもなく偽物を掴まされるのがおち、そのてん新ジャンルなら戦えるし新しい価値を創造、構築するつもりで頑張っております。
最近沖縄県立博物館がリニューアルして湧田焼の露出度も上がり始めたと思うので得意満面。
季節の挨拶の様になってしまいましたが今日は新沖縄県立博物館の敷地内に出来た湧田窯の遺構展示を紹介します。
また写真と写真の間には過去にHPで著した湧田に関するエッセイを再度掲載します。







湧田焼は現在の沖縄県庁付近に在った窯と言われている。
相当に大規模で広範囲に散在し、瓦窯と上焼窯それぞれ専門の窯を持った。
17世紀の初めに薩摩から朝鮮人の陶工、一六・一官・三官のの3名を招聘し製陶の指導と作陶に従事させたのがその始まりと言われている。
秀吉は文禄の役、慶長の役と2度にわたって朝鮮に出兵した。
諸将は李朝の陶工を連れ帰って、それぞれの藩内に窯を開いた歴史がある。
毛利の萩焼、鍋島の有田焼、細川の豊前焼、黒田の筑前焼、松島の肥前焼、加藤の肥後焼などいずれもこの時代の開闢である。
薩摩焼も第18代藩主島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工によって築窯された文禄4年(1595年)の事とされる。〔慶長3年(1598年)と言う説もあり。〕
琉球と薩摩の間にはさかんな交易があった。
当時としては貴重な人材、薩摩の朝鮮人陶工の内の3名が殖産目的に琉球に派遣されたとしてもなんの不思議もない。
湧田は琉球で初めて上焼の茶壷や茶碗を焼いた。
1682年には湧田、知花、宝口の三つの窯が王府の政策により、統合され壺屋焼となった。(2003年)











                                 

博物館本館で展示される施釉陶器 湧田碗
 沖縄各地から出土する湧田系陶器 写真は本島北部の古窯跡出土品

宮古島の古墳ミャーカから発掘される湧田系陶器(写真左と上二点)
(写真中央と右は中国明末から清初の染付)

宮古島の古墳ミャーカ


沖縄各地から出土する荒焼壺と七輪と瓦

  2009−11−5