| 鉄絵 湧田 | |||||||||
秀吉の朝鮮出兵 文禄(1592) 慶長(1597)の役は別名焼き物戦争と言われ 多くの朝鮮人陶工が日本に連れて来られた。 ![]() ![]() 鶏龍山 李朝15世紀 (日本民藝館) 特に島津藩は焼き物の殖産に熱心で朝鮮人陶工による唐津焼の誕生は有名である。 唐津焼は日本で最初の本格的な施釉陶器である(自然釉ではないと言う事) と同時に日本最初の磁器生産 有田焼の母体と言われ今日の焼物大国日本の 礎を築いた。 ![]() ![]() 絵唐津 桃山時代 (出光美術館) 1609年 島津藩の琉球侵攻を境にして、琉球の焼き物の歴史に 一段の飛躍が見られる。 これは島津の琉球政策とも絡んでくるが、首里王府でも積極的な工芸技術の導入政策を進め、自給自足体制を固めていった。 焼き物に関しては、尚寧王が、世子尚豊を通じて島津氏に願い出て。 1617年薩摩にいた朝鮮人陶工、張献功十六、安一官、安三官、の3人を招いて 湧田で技術指導にあたらせた。 この3人の陶工を通して、朝鮮李朝時代の焼き物の技術が沖縄に伝えられたのである。 ![]() ![]() 絵唐津 桃山時代 (出光美術館) 湧田焼 鉄絵 17世紀 ![]() 湧田焼きは琉球で最初の施釉陶器となった。 湧田焼きに関して陶芸研究か平良邦夫は次の様に述べている。 「湧田焼きは1617年尚寧王が薩摩より招いた朝鮮人陶工3名を湧田村 (現在の沖縄県庁付近)に移住させ、窯を起こして製陶の技法を伝授させた 焼き物である。 ![]() ![]() 湧田焼 鉄絵 丸紋 17世紀![]() ![]() 絵唐津三星文ぐい呑 湧田鉄絵三星文まかい 碗等の小物類は本島や離島から広く出土することから 当時から琉球の各地へ拡販されていたと思われる。湧田の陶片の断面を見ると 古我知の陶土に酷似している。従って当時は、北部より大量に陶土を運搬し かつ湧田が国場川の近くに在る事からも恐らく船を利用して大量生産 大量販売されていた。良質の陶土だった所為で、湧田焼きの製品全体が 後世の壷屋焼きに比べ薄厚であり口辺部の広がりに特徴があって、琉球独特の 白陶土を、ふんだんに生掛けの上釉に使っている。釉薬の使い方もあっさり しているが、朝鮮系の技法の巧みさと、琉球独特の陶土と釉の対する研究の 熱心さがうかがえる。 湧田焼きは、殆んど白釉掛けを多用しているが、井戸茶碗の価値や深み は無いにしても、もともとがお互い雑器であった共通点よりすれば その姿より抹茶茶碗として使うことも出来よう」 ![]() 日本民藝館学芸委員の尾久 彰三氏の自身の著書の中で次の様に言っている。 「沖縄の古窯である湧田窯並びに、壷屋の初期に造られた古作茶碗は もとより、茶を喫するための碗ではなく、飯や豚煮や汁を入れる為の物で 典型的な雑器である。 しかし、古作は形姿に秀で、新作は衣匠に優れており、近代の目を持って 眺めるなら、両者に高い芸術性を、感受することが出来る。 こういった茶に用いたくなる沖縄茶碗の美しさは、柳 浜田 河井等 民芸運動の推進者達によって、大正の末から昭和にかけて発見されたが 今日まだ地方民窯程度の評価にとどまっている様子を思うと、その真価は まだまだ認識不足の中にあると言えよう。 沖縄の焼き物が持つ芸術的価値を、唐津や朝鮮茶碗のそれと較べるなら その購う額はかなり安いと言えるかもしれない」 それにしても上に掲げた焼物のなんと見事な鉄絵だろうか。 例えば唐九朗をしてこれ程の絵が書けるだろうか。 唐九朗は自身の著書で次の様に述べている。 「焼き物作りは どうしても身体の柔らかい成長期に習熟しないとよほどの天分がないかぎり、ほんとうのものにはなりません。 年齢的には14,15歳から初めて20歳頃までには一通りやれるのがもっともよく、20歳になってから始めるのはもう遅いのです」 また唐津の陶工 13代 中里太郎衛門は言う、 「桃山時代の(17世紀)の鉄絵は真似しようとして真似できる物ではない、今はあんな絵をかける人はいない」 |
|||||||||