荒焼き

琉球の大貿易時代の後半、シャム、安南あたりから陶器製作の技術がもたらされた。
伝世されている古い陶器は主として南蛮ガメ等であることから泡盛の製法と共に南方より伝来したと考えられている。
これ以降 琉球陶器の時代に入っていく訳だが、これについても前出「球陽」に貴重な記録が見られる。
尚永王(在位1573年〜1589年)の頃の付記に、萬暦年間(尚永王在位年間と解して良いと思う)
「汪永沢小橋川親雲上考紹を瓦奉行職に任じ、陶瓦と焼甕等を総管させた」とある。
屋根瓦と今日私たちが言う荒焼きが生産されていた。
この記録に見られるように、奉行職を置くぐらいであったから、この時代以前の久しい前から既に数箇所に窯が築かれていたと解釈できる。
はっきりした記録は残されていないが、そのころ築かれた窯が今日知られている 山田、喜名、知花、古我知等の古窯だと考えられている。
これらの窯で焼かれたものは、窯跡から出る陶片や伝世品からほとんどが荒焼きの甕類である。
史書を裏付けるものと言えるだろう。



甕の形態は明らかにシャム 安南の南蛮甕を模して作られている。
山田焼の発祥の地の山田城主である護佐丸が読谷村の座喜味城に移った時分に移築したと考えられる喜名焼きはシャムの宋胡録の写しを焼いている。
それと同時に琉球泡盛の源流であるシャムの酒ラオロン酒を入れた、ソコタイの
酒甕も写され、これが現在の壷屋焼きまで引き継がれている。
甕は広い用途を持ち酒類の貯蔵はもちろんのこと穀類やその種の貯蔵、味噌、塩、油類、その他塩漬け豚肉、漬物類の容器として幅広く重宝されていた。