湧田焼

沖縄の陶芸の歴史の中に、いくつかの流れがある事を知った。
今回は、湧田焼について述べてみたい。
湧田焼は現在の沖縄県庁付近に在った窯と言われている。
相当に大規模で広範囲に散在し、瓦窯と上焼窯それぞれ専門の窯を持った。
17世紀の初めに薩摩から朝鮮人の陶工、一六・一官・三官のの3名を招聘し
製陶の指導と作陶に従事させたのがその始まりと言われている。

秀吉は文禄の役、慶長の役と2度にわたって朝鮮に出兵した。
諸将は李朝の陶工を連れ帰って、それぞれの藩内に窯を開いた歴史がある。
毛利の萩焼、鍋島の有田焼、細川の豊前焼
黒田の筑前焼、松島の肥前焼、加藤の肥後焼などいずれもこの時代の開闢である。
薩摩焼も第18代藩主島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工によって築窯された。
文禄4年(1595年)の事とされる。〔慶長3年(1598年)と言う説もあり。〕
琉球と薩摩の間にはさかんな公益がある。
薩摩の朝鮮人陶工の内の3名がなんらかの理由で琉球に派遣されたとしても
なんの不思議もない。
湧田は琉球で初めて上焼の茶壷や茶碗を焼いた。
1682年には湧田、知花、宝口の三つの窯が王府の政策により、統合され壺屋焼となった。
このまま現存の壺屋へと受け継がれている。

知花の前身である喜名焼が琉球における最も古い窯である。
喜名焼は現在の読谷村に在った窯で、
シャム、現在のタイとの間の南方貿易によってもたらされた、窯である。
作風は明らかにシャムの物である。
以上の事を考え合せると、壺屋はシャムと朝鮮の技術が入り混じった窯であると言える。
我国において、今なお独特な作風を持つ壺屋焼は以上の様な歴史によって
もたらされたのである。
余談だが、古我知焼と言う窯が名護の近くにある。
この窯は地理的に近い喜名焼の影響が少なく、むしろ湧田に酷似している。

古我知焼は1713年に最初の記載があり、時代考証からも湧田の陶工が市場を求めて
名護に進出したのだろう。
琉球王朝によって諸国の窯が壺屋に統合される以前、
琉球には朝鮮系とシャム系の窯が各地に混在していたのである。