壷屋焼-2

壷屋焼考-2

明治初期以前の琉球の古陶器は現在のものに比べ薄手の物が多く、今の物のように厚ぼったくない。
これは原土となる土の相違か陶工の技術による物なのか興味深い。


                                      喜名焼 17世紀


御拝領窯7つの内一つを受け持った家系 新垣 栄三郎氏は雑誌のインタビュ−に答えて次の様に説明する。
「今私たちが使っている土は読谷山の喜名と恩納村の山田、それに同じく前我如古、それから名護市の喜瀬、この四箇所の土を調合して使っています、昔の土は恩納村仲泊から出ているんです、そこの土は耐火度がかなり高く薄作りできます。ところが仲泊の土はもう採れない状況にあるんです。また仲泊の土は採れても調合しないといかん、壷屋のクチャと混ぜないといけませんがこれも今は採れません。仮に採れたとしても昔のような良い物はありません」と答えている。
今日の壷屋焼きが厚作りなのは原土による影響が大きいようである。

もう一つ陶器に対する文化 流行も考慮に入れたほうが良いだろう。
確かに古い物には薄手の物が多いがこれは中国 朝鮮の陶工が直接 琉球で活躍した時期に作られたものであるということである。
しかし気温の高い琉球では本来厚手の陶器が潜在需要となっていたと考える。
熱いジュ−シ−やそーき汁を食するときは厚手の陶器のが使いやすい事は容易に想像できる。
中国 朝鮮の陶工の影響力が消えたとき琉球本来の陶器が生産されるようになったと考えるのは間違えていない、薄手の物が厚手の物より上手で生活に密着していたとは言えないのである。