壷屋の壷

琉球王朝時代の壷屋焼きの伝世品の中で上焼きすなわち施釉した陶器が極端に少ないのはなぜなのだろうか。
一方で無釉焼き締めの壷はそれこそゴロゴロしている、これらは荒焼きと言われ泡盛や味噌 塩 ラ−ドなどを入れた生活雑器である。
もともとの生産量も数倍違うのだろうが沖縄で目にする古陶の大半はこれら荒焼き壷なのである。
(古いと言われている上焼きのほとんどは明治以降の物である)
壷屋酒壷



琉球王朝は中間貿易で栄えた王国である、那覇には中国や安南 朝鮮そして大和の商人たちでにぎわっていた、商人の他にも諸外国の国賓が頻繁に外交に訪れた時期がある。
久米村は中国人街のことで今で言うチャイナタウンが15世紀には出現していたのである。
これら外国人たちを丁重にもてなす必需品が酒と料理だったはずである。
(芸者も入れたほうが良いかな?)
王朝は泡盛の生産を首里城周辺に集中させ一括管理していた、また泡盛生産に欠かせない酒壷の生産も首里の城下町 壷屋に各窯元を統合して管理生産した。
酒は今よりはるかに高価な物で品質管理と横流しを防ぐ手立てだったのである。
商人の国は人脈形成と接待が命綱である、(本当はそれだけではだめだけれど)外交を円滑に進める為にも酒は重要なツ−ル(道具)だったのである。
個人的な仮説だが国策としての外交政策としての泡盛造り、これが荒焼きの酒壷が沢山現存している理由だと感じている。
そこで泡盛を酌み交わすのに上等な杯や銚子が必要なかったはずはない。
ところがこれら陶器製酒器が無いのである、いや無いとは言わないが数が少なすぎるのである。
この事の答えと言ってよさそうな記述が「李朝実録」にある。
李朝の歴史書だがここの1462年の条に海難に会い宮古島へ漂着し後に那覇に護送された後 朝鮮に帰還した者の記録がある。
彼らの記録によると那覇港の海岸には城があり蔵は酒で満たされていた、酒は蒸留され澄んでいる、一年もの二年もの三年物に分かれていた。
1479年の条には与那国島に漂流し同じく那覇に護送された朝鮮人の記録もある、1478年に泊公館に収容された彼らは那覇で初めて南蛮酒を味わった「酒には清 濁ありて盛るには蝋瓶をもってし、酌するには銀の錘をもってする味は焼酎のごとく甚だ猛烈なり」
彼らはまた巡行中の国王尚真(1477〜1526)と王母に拝謁した、この時 王母は銀の瓶二つに酒を盛り漆の盃で酒をふるまってくれたとある。
以上の記述から王朝時代の役人たちは酒器としておもに銀製品と漆製品を使用していた事が分かる。
また近年の発掘調査から首里城 泊港 天久 浦添城跡などで大量の中国陶磁器が発掘された、これらの事から王朝の上流階級は生活用品として主に中国製品を使用していたのである、貿易大国琉球ならではの贅沢と言えるだろう。
なお漆製品と銀製品は琉球製である可能性が高い。

独断と偏見の王朝時代の壷屋焼きに高級品が少ない理由の仮説。

「嘗ての壷屋は荒焼き酒壷専門と言っても良い窯場だった、
すなわち泡盛生産関連施設の一部門である」