魂から心へ

人間の身体は体と心から出来ていると考える人が多い。
心の抜けた身体はもはや人間ではなくただの抜け殻 死体と変わらないと言う考えだ。(つまり脳死の問題である)
これは今に始まる思想ではなく古代の人々も体と魂を別のものと考えた。
それでは人間をつかさどる生命力の部分が魂から心に変わったのはいつの頃からだろう。
仮説だが仏教 儒教 道教の導入時期ではないだろうか。
宗教は魂の在り方を理論的 道徳的 体系的に考え直し、つまり魂は心のありようとして社会生活における一種のマナーとして説明的に解釈できると考えた。
これは古代からの脱却であり八百万の神の時代の終焉であった、シャーマニズム的な宗教から体系的 道徳的な宗教へそして人生観の変化。
仏教が、あるいはそれに代わる宗教たとえばキリスト教やイスラム教が流入しなかった地域や流入以前の地域は生々しいまでに隣り合わせで身近な生と死をつまりは魂の所在を神秘的なもの理解不能なもの人知の及ばないものとして素直に畏怖の念を抱いた。
現代人には理解不能な生贄の儀式や祈祷師を中心とした奇怪な風習が理解不能でありながら神聖なるものに感じるのはこのせいである。
芸術にも大きな変化をもたらす 仏教流入以後、説明的 文学的 学問的で文様化 記号化された芸術が出現、言葉を変えれば品格の高い心の文化、文人文化が形成された。
一方で魂と純粋に対峙した時代、古代マヤ文明や殷王朝の青銅器アフリカ原住民の人形などの造形はとてつもない迫力で我々に迫ってくる。(芸術の究極的表現?)
琉球の古窯湧田焼きの文様の生々しさも仏教の根づいていない古琉球の時代で説明できるのではないだろうか。



トラロック神の土製壺 アステカ文明

 
殷王朝 青銅器 とうてつ紋

  
三星堆遺跡 出土の青銅器                 古琉球 湧田まぶい紋