城間栄喜 

先日陶宝堂の金子さんから小包が届いた。
筒型の小包だったので来年のカレンダーだろうと思ったがいささか時期が早すぎる、奇妙な気持ちで封を開けると紅型の型紙である。
これは大変な頂き物だと直感した私は早速お礼の電話を入れた。

城間栄喜氏の型紙だそうである、戦後灰燼に帰した紅型を再興させた立役者で沖縄県の教科書に載るほどの人物である。
こんな貴重な物を頂いて良いものやらと悩んだが型の持つ品格に打ちのめされて頂きたい気持ちの方が強くなってしまっている自分が有り、お礼の電話も上ずったものだった。

長い御付き合いの内にはこんな事もあるのだなと恐縮しながらも御厚意に甘える事になる。
陶宝堂は最近、琉球の古布に力を入れていて紅型や芭蕉布その他数多い琉球の布を扱う専門店を開店した。
本店のすぐ隣だからすぐに見つける事が出来る。
琉球を代表する伝統工芸の最高峰は紅型だろう、世界で通用する誇り高い物だ、これを広く全国に認知させて尚且つ古物に関してはしっかりした市場価格を形成する事が陶宝堂の金子さんの天命かもしれない。








紅型と城間栄喜さんに関する情報を以下に掲載します
「ウイキペディア」
紅型(びんがた)とは、沖縄を代表する伝統的な染色技法の一つ。14世紀の紅型の裂が現存しており、技術確立の時間を考慮すると、その起源は13世紀頃と推定されている。
「紅」は色全般を指し、「型」は様々な模様を指していると言われる。この定義をしたのは鎌倉芳太郎と伊波普猷とする説があるが、鎌倉芳太郎が1924年に初めて使用。「紅型」の漢字表記が広く普及され始めたのは昭和期に入ってから。沖縄県は「びんがた」と平仮名表記する場合が多い。古文書に現れる文字は「形付」、「形附」で「紅型」表記はない。高年者や下級士族向けの藍色の濃淡で染めるものは藍方(えーがた)と呼ぶ。

歴史  琉球王朝時代は王族や貴族の衣装として染められた。そのため染屋は首里城の周りに置かれ庇護されていた。その後薩摩による侵略、廃藩置県などにより、王家からの庇護を失った染屋は廃業を余儀なくされ、多くの染屋が首里を後にし、那覇等に移り住み宮廷のために生まれた紅型は衰退していく。
以降は本土への輸出品として薩摩藩への貢納が義務付けられた。現在古紅型と呼ばれるものはこのころの作品が多いが、本土の影響からか友禅とモチーフが共通したものが多い、当時の貴族階級(士族)の女性および成人前の男子の衣装として作成され、文様に衣装を身に着ける者への加護の意味が込められる。鶴を赤や緑で染めたり、桜を黄色やえんじで染めるなど色の扱いは「非常に奔放」と染色家の説がほとんどである。江戸時代は袋物などの小物用生地、明治からは着物などにも使われていた。

第二次世界大戦で多くの型紙や道具が焼失、一部型紙等は鎌倉芳太郎により本土へ渡り保管されていた。戦後、それら型紙を分けてもらい紅型復興に尽力したのが、王朝時代からびんがた宗家として染物業に従事してきた城間家の城間栄喜と知念家の知念績弘。戦後の材料不足の中、拾った日本軍の極秘地図に下絵を描き型紙として使用、割れたレコード盤を糊置きのヘラに、口紅を顔料のかわりに、薬莢を糊袋の筒先に使用したり、工夫しながら紅型の復興に勤める。彼らの努力がなければ紅型の技術は失われていた。
「ウイキペディア」
                    2012−9−19