神韻

東京12チャンネルの開運なんでも鑑定団が好きで毎週欠かさない。
骨董収集にまつわる悲喜交々の人間ドラマは時に感心させられ時に笑いを誘う。
こんな物にこんなに価値があるのかと驚く事も多いが、あらゆる分野で贋物の多い事に一番驚いてしまう。
人間の物欲とあいまって思わぬドラマが展開されるのである。

大量の贋作を集めてしまう人には共通点があるようだ。
勉強不足で思い込みの激しい人、かってなスト−リィを夢想し好き嫌いで物を判断してしまう人達。
この様な人達の収集品は本物の中に贋物が混じると言うような事でなく収集品のほとんど全てが贋物と言う事になってしまう。

こう言う人が骨董商の餌食になってしまうのは仕方ないにしても、世に頭が良いと言われる人達、例えば医者 学校の先生 会社経営者 組合の理事長さん 優良企業のビジネスマン達の中で見事に全滅、財産の大半をつぎ込んで二束三文のコレクションをしてしまう人がいるのは何故だろう。
一方で筋の良い魅力的なコレクションをなす人がいる。
この両者にどのような違いがあるのだろうか、TVを見ていていつも考えさせられてしまう。
私の考えだが良い物が放つ光が見える人と見えない人がいるのではないだろうか。
これは頭のよさとは関係ないセンスの問題である。
骨董コレクタ−であれば一度や二度、良い物がまるで光を放つかのようにガラクタの中から自己主張するのを体験した事があるはずである。
デパ−ト8階の大催事場でリサイクルショップのごみの山の中で骨董屋の奥まった棚の上で、一瞬にして目に焼きつき一目ぼれする体験。
衝動ではない、物の持つ魂が見える瞬間、霊感にも似たこのセンスを持つ者と持たない者の差ではないのか。
(霊現象とは違います審美眼の一つとお考え下さい、この辺の事、勘違い する方が多い様です)
物の魂が見えない者はどうしても理屈で物を判断する。
この時代の絵はこう、高台はこの形、絵の具や釉薬の色はこの色などと自分なりの方程式に当てはめていくのだ、そして判断するのである。
しかし考えて見たらよい、そんなこと贋物師だって承知のはずだ、物を見ずに理屈を見れば失敗する事になるのである。

有る本で読んだことがある、昭和の目利き白州正子は
「物には魂の有る物と無い物がたしかにある」と言っている。

魯山人は言う
「鍋島や柿右衛門には工芸美術的な良さはあるが、精神力には欠けている。そこへ行くと古九谷には道楽気があった、芸術味が含まれている。無我夢中になってやった仕事には魂が入っている。下手なようで上手な余韻を持っているところがよい」

物の持つ魂を現す言葉は日本語にはないと思う。
しかし中国にはこの概念と良く似た意味の単語があり私は便利に使っている。
清朝の茶壷を集めるコレクタ−が使う言葉で良い物を指して
「この急須には神韻(しんいん)が有る」と言う。
文字通り かみさまのよいん 物体を越えた所に有る存在感。 
「神韻」を感じること、これが一流コレクタ−の様である。