ペンタックスSB及びSB2が考えさせる事
 1959年アサヒペンタックスSB及びSB2が自衛隊共済組合によって基地内で販売された。
このSB型は一般に市販されることがなかったので、Bは防衛庁のBを意味するかも知れない。ペンタックスは、当時S2型の販売をしている。したがって、SB、SB2型は、S2型とほぼ同内容のカメラと推測される。
 このカメラは、前出のカメラのタカチヨで入手した。カメラのタカチヨは、那覇国際空港近く、奥武山公園の側に在る。この地域は陸上、海上、航空自衛隊沖縄駐屯地のすぐ裏手にあたる場所なので、地理的にもこう言った出物が多いことに納得がいく。ただ一つ不可解なのは、1959年は沖縄返還のはるか以前で、この時期に沖縄に自衛隊は存在していないのである。対日講和条約第3条によって得ていた沖縄の施政権を放棄して、米国が沖縄を日本に返還したのは1972年5月15日である。これより以前米国のベトナム内戦への全面介入とともに、沖縄の軍事的重要性は以前にも増して増大していた。一方、経済大国から政治大国への道を歩もうとしていた日本にとって、自国の領土と人民が、同盟国の支配下に置かれていると言う現状を、放置するわけにもいかなかった。この微妙な政治的バランスの問題は、米国にしても大きな問題であった。こうして1967年春から、沖縄返還交渉は急速に進展していくのである。沖縄返還の重要なテーマは、まず第1に沖縄返還を契機に、日本がどのような形で対米協力を強化出来るか。第2にどうすれば返還後も沖縄の基地の機能を維持、強化出来るかということであった。沖縄返還に際して日本政府は、ベトナム政策の全面支持、東南アジアの軍事政権に対する経済援助の肩代わり、貿易自由化の促進、自衛力の強化、そして自衛隊による沖縄防衛などを確約している。こうした状況の中、沖縄返還と同時に自衛隊の沖縄駐屯が始まって行く。ベトナム戦争の激化、1949年中華人民共和国の成立、1950年朝鮮戦争の勃発、米ソの冷戦など、今日以上に緊迫した世界情勢の中、南シナ海は西側諸国防衛の要となっていった。対外的軍事圧力は米軍の主たる任務となったが、肝心の沖縄本島防衛に関して政治上、あるいは政策上、完全に自衛隊に一任されることとなる。推測の域を出ないが、沖縄駐屯の決まった部隊及び隊員の責任の重さによる重圧は大変なものであったろう。はえ抜きの精鋭と新進気鋭の隊員で組織されたであろうことは疑う余地がない。ところで我々は、自衛隊を過少評価してはいまいか。政府の巧みな情報操作によって日本が軍事大国であることを隠蔽されてはいまいか。1999年の世界の軍事力を、兵数、戦車数、潜水艦、艦艇、航空機数で比較してみると日本は5指に入る軍事大国と解る。米国、ロシア、中国を別格にすると、大韓民国、北朝鮮、日本が2番手グループになっている。他のあらゆる国、ヨーロッパ諸国をもうわまわっているのである。特に防衛費だけでみると我国はアメリカに次いで世界第2位である。話しが随分横道にそれたが、沖縄でペンタックスSBのようなカメラが大量に見つかると言うことは、1972年当時古参のベテラン自衛隊員が大勢駐屯した証と言えるのである。