大城助素

沖縄の基幹産業と言えば嘗て製糖業がその筆頭であった。
その歴史は意外にも浅く廃藩置県の後、沖縄経済自立のため殖産の必要性から模索されたものである。
製糖業の中心地は西原町にあった、福岡日日新聞 1912.10.31-1912.11.1(大正1)では西原町の製糖業を次のように紹介している。
「糖業の革新時代」
「明治四十二年の春中頭郡西原村に糖業改良事務局の付属工場設置せられ洋式機械の効果を目撃したる県民は始めて糖業の改良に意を用い同四十三年斉藤島尻郡長主催の下に金城技手主任となり同郡高峰村に八十噸式の工場を設立し範を農夫に示して続いて四十四年に中頭郡北谷村字嘉手納に四百噸式の沖縄製糖会社設立せられ今や沖縄県下の糖業は実に革命時代にありと云うも亦過言にらざるの盛況に達せり」

1900年代初めの西原製糖工場

近代的産業として競争優位に立つためには効率的な生産体制が不可欠であることは古今東西変わらない。
そして沖縄県の製糖設備の近代化を成功に導いたのが今回紹介する大城助素氏である。
後述の西原町HPや石碑の記述をお読みいただければ解ることだが私財を投げうって西原町の殖産に尽力した大城氏は現在でも地元住民に尊敬されている、そして氏の記念碑は西原町の一番高い場所から今でも人々を見守っているのである。


大城助素氏を西原町の文化財HPでは次のように紹介している。
この石碑は大城助素氏の偉業をたたえて大正10年7月に建立されたものである。
大城助素氏は、地元小橋川の屋号伊田の嫡子として慶応3年(1867年)に生まれた。明治15年、西原間切番所の文子(書記)を拝命以来、勧業委員、村会議員、学務委員等を歴任し、村政の発展に大きく貢献した。明治32年頃より、農村の改革を企図し糖業および農村の振興は甘庶圧搾機にあると着目し、私財を投じて研究に没頭した。
大正3年ついに大城式甘庶圧搾機玉車を発明した。これによって沖縄県の基幹産業である糖業に一大光明をもたらし、県下産業界にも大きく貢献した。大正6年5月29日、大城助素氏は享年55歳にして惜しくも他界された。 

                         西原町字小橋川 小橋川



今日 沖縄の風物として琉球村などの観光施設で旅人の目を楽しませている製糖の様子や使用される機械はここ西原が発祥の地なのである。



                           御子孫の大城常冶氏と奥様
                                  2009−10−23