沖縄土産 2 久高島のコースター | |||
久高島(くだかじま)は、沖縄本島東南端に位置する知念岬の沖5km程にある小さな島である、人口は約200人、島を訪れるには南城市知念安座真(あざま)港より高速船で15分である。 久高島は他の離島の様に御気楽な観光地ではなく県民もめったに訪れない琉球時代からの聖地である、したがってこれといった観光施設はなく礼拝所が多数あるだけである。 「祈りの場に有る物は浜辺の砂粒一つ持ち出してはならない、誰もいない静かで霊験あらたかな浜辺に立ち、見慣れない真っ白な浜辺の綺麗な巻貝を目に止めてもそれは神の使いであり啓示なのだから一切持ち帰ってはならない。もし持ち帰る様な事があれば其の者には災いが降りかかるだろう」 こんな事を言われながらの観光などあり得ない訳で沖縄県での秘境と言われる島なのです。 島の産業は漁業ではモズク、海ぶどう、イラブー(ウミヘビ)を燻製にした乾物などがありイラブーを煮込んだイラブー汁はこの島の名物である。農業では、ノニとお茶が特産品である。 島には小さな診療所が一つある、ここの看護婦さんが家内の高校時代の友人である、友人は手が足りなければ先生の代わりに一人で赤ん坊を取り上げるなど、まるでドラマ「Drコトー」を地で行くような強い女性である。 久高島を訪れた家内に彼女が持たせてくれた久高島唯一のお土産品が写真の手造りコースター「やさしい強さ」に満ちているでしょ。 2011−4−25 久高島に関する資料 ウィキペデイアより 琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという、琉球神話聖地の島である。琉球王朝時代に沖縄本島最高の聖地とされた斎場御嶽(せいふぁうたき)は、この久高島に巡礼する国王が立ち寄った御嶽であり、久高島からの霊力(セジ)を最も集める場所と考えられていた。島内には御嶽(うたき)、拝み所(うがんしょ)、殿(とぅん)、井(かー)などの聖地が散在しており、中でも島中央部にあるクボー御嶽は久高島第一の聖域であり、男子禁制である。 久高島には琉球王朝に作られた神女組織「祝女(ノロ)」制度を継承し、12年に一度行われる秘祭イザイホーを頂点とした祭事を行うなど、女性を守護神とする母性原理の精神文化を伝えており、民俗学的に重要な島である。12年に一度の午(うま)年の旧暦11月15日からの6日間、島の30歳から41歳までの女性がナンチュという地位になるための儀礼として行われる。それにより一人前の女性として認められ、家族を加護する神的な力を得るとされる。ただしイザイホーは、後継者の不足のために1978年に行われた後、1990年、2002年は行われていない。 久高島は海の彼方の異界ニライカナイにつながる聖地であり、穀物がニライカナイからもたらされたといわれている。『琉球国由来記』(1713年)によると、島の東海岸にある伊敷(イシキ)浜に流れ着いた壷の中に五穀の種子が入っていたと記載されており、五穀発祥の地とされる。島の伝承では流れ着いたのは壷ではなく瓢箪であり、それをアカッチュミとシマリバという名の夫婦が拾ったともいう。また、年始に男子一人につき伊敷浜の石を三個拾い、お守りとして家に置き、年末に浜に戻す儀式がある。 島北端のカベール岬は祖神アマミキヨが降り立ったとされる地であり、海神が白馬の姿で降臨したとも伝わる聖地である。 久高島の土地は村有地などを除いてすべて共有地であり、琉球王朝時代の地割制度が唯一残っている。「久高島土地憲章」により分配・管理を行っている。 島内は観光開発がほとんどされず集落は昔ながらの静かな雰囲気を残している。また上記の聖地をまわるにもほとんど標識がないため、詳細な地図をあたるか、地元の人に聞かないと探すのは難しい。 中世から近世にかけて、久高海人は奄美群島まで出かけて、現地妻を作るなどしたため、奄美との交流の歴史は古い。奄美の一地方では、久高海人を意味する「くだかんちゅ」という言葉が、久高島周辺の沖縄諸島住民全体を指して用いられることがあった。 かつて風葬が行われていた地であり、地元の方言による葬送歌なども存在する。 |
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