沖縄研究 No3
 

戦後 沖縄のアメリカ文化

 太平洋戦争は19458月、日本の無条件降伏によって幕を閉じた。
それに先立つ19454月、米軍を主力とした連合艦隊は沖縄上陸を果たし多くの民間人を巻き込みながら泥沼の地上戦を敢行する。
日米双方に多くの犠牲者を出した沖縄戦は同年7月、日本軍の玉砕という形で終了した。
その後、連合軍は沖縄を日本本土空襲の最前線基地とすべく大規模な空軍基地建設を行い、これ以降 連合軍による日本本土空襲が本格化した。
沖縄県は8月の終戦以降も米軍施政の下に置かれ、祖国復帰を果たすのは27年後の1972年(昭和47年)515日である。
沖縄県民は、戦火の爪跡まだ消えぬ中で自らの力で生きる道を探さなければならず、それには生産の手段である産業を興さねばならなかった。
このような中から沖縄県には幾つかの産業が芽生えたが、その新産業の前に立ちはだかったのは本土大手企業の企業力であった。
沖縄からのその企業力排除について、占領者である時の行政権者、米国民政府に訴えたのであるが、それは聞き入れられなかった。
米国民政府には米国の国防上の都合があったからである。
米国民政は沖縄の貿易自由化に関する布令第12号を出し(1958年)、18品目を要許可品目に挙げただけで、後は全て貿易自由化政策をとったのである。
これは米国の国防上の必要から出た米国民政府の軍事優先政策であった。
すなわち、それは軍事戦略物資調達優先の政策に他ならなかった。
周囲を見回した後に自国民が、貿易戦争に勝てると判断した後の貿易の自由ではない、沖縄の場合、むしろ沖縄の生産力のなさを見限った後の貿易の自由、この様に正常でない貿易の自由化が沖縄の貿易の自由だったのである。
ここで米国民政府は沖縄経済の再復興に本気で着手したのか、と言う疑問がわいてくる。
結論から言えば米国民政府は沖縄の経済的復興は最優先課題ではなく沖縄を植民地的支配下の置いた。
日本と沖縄とではそれぞれ異なった“戦後復興の初期条件”が設定されることになる。
米国は東西冷戦の勃発を契機に、日本を自由主義陣営の一員として強化する方向へ占領政策を転換したが、その際最大の要件は早急に日本の経済復興をはかることであった。
そのためには経済復興にとってブレ−キとなる軍事予算を負担させないこと、即ち、日本には再軍備させないことを決定した。
もとより、日本の防衛は必要ないとみたわけではなく、沖縄を日本から分離し米国統治下において米軍基地を建設し、そこから日本の安全を保障していくという構想が同時に備わされていたのである。
同時に米国はまた、軍事上の安定を確保する手段として、即ち、沖縄獲得の代償として沖縄経済の戦後復興に着手することも決定した。
こうして米国は米軍の基地建設と沖縄経済の復興を同時に進めることになるが、両者を成功させるために展開された一連の政策が沖縄経済の戦後復興の方向を規制する初期条件になったのである。
もとより、米国にとって第一の目的は米軍基地の建設であり、当然のことながら、基地建設を可能にするよう経済的諸条件を整備することに重点が置かれた。
つづいて、第二の目的である沖縄経済の復興については、基地建設に膨大な資金が投入されることに着目し、基地建設のもたらす波及効果を最大限に活用することによって経済復興をはかるという施策が展開されることとなった。
基地建設がどのような雇用を生み出したかといえば当初15000人を動員する必要があった。
そのため米軍は、基地従業員の賃金を一挙に3倍に引き上げた。
賃金引上げは予想以上の効果を発揮し、軍労働への応募が殺到、基地建設工事がピ−クの1952年には基地従業員の数は実に63000人を数えたのである。
高賃金は沖縄県民にとって花形産業であるばかりではなく、彼らの貸せぐドル賃金が沖縄の主たる対外受取源となり、基地経済はまさに“花形産業”となったのである。
これは基地建設と経済復興は両立するという政策となり、沖縄にとっては文字通り宿命的な戦後復興の方程式であった。
労働者、建設業者、商業、およびサ−ビス業など諸々の生産要素を基地建設に動員してドルを稼がせ、このドルで大量の物資を輸入し、経済復興の手段とする施策が推進されたからである。
こうした構造は沖縄経済を、貨幣所得を基地に求める基地依存へ誘導するとともに、物資供給を輸入に求める輸入依存の経済に向かわしめた。
沖縄経済は、戦後復興の初期条件として 「基地依存型輸入経済」 という不可抗力の枠組みをはめられてスタ−トしたのである。
この体質は祖国復帰を果たした今日においても変わってはいない。
基地依存型輸入経済の比率が低下し、代わって日本政府からの公共事業依存型輸入経済の社会がおとずれている。
沖縄県を訪れるとなんと、使われない公共施設の多いことか、もっとも他府県でも同じようなものである。

このような現状に沖縄県民は大きな不満を抱いているのだろうか。
ここに面白いデ−タ−がある。
NHKが、復帰後5年ごとに沖縄県民に対して世論調査を行っている、復帰の評価である。

復帰して      良かった      悪かった

77年         40%       55

82年         63%       32

87年         76%       18

92年         81%       11

 年を追うごとに評価が高まっていることがわかる。
これは、異民族支配からの脱却、第一次、第二次振興開発計画による社会基盤の整備により人々の暮らしが着実に安定向上したことへの評価であろう。