沖縄研究 No1

琉球の歴史

1)先史沖縄

沖縄の島々にいつ頃から人類が住み着くようになったかは定かではないが、那覇市で出土した化石人骨(山下洞人)は今から約32000年前、具志頭村の港川で出土した化石人骨(港川人)は約18000年前のものであることが確認されている。

港川人は中国南部やインドシナ北部地方の新石器人に似ているといわれているが、その港川人が中国大陸から琉球列島に移動するためには、海を渡らなけらばならなかった。港川人は船などを使って大陸から渡ってきた可能性が高いと言われている。
港川人の時代から長い空白期間およそ一万数千年をへて、およそ7000年前から新石器時代の縄文時代相当の遺跡が登場する。
沖縄での縄文時代の遺跡は、最も古いものが縄文早期である。縄文早期の遺跡は海岸砂丘地や海岸近くの琉球石灰岩の洞穴内に多い。この時期の土器は九州の縄文草創期の土器に似ているが、縄文早期に位置付けられている。

2)古琉球
12世紀の日本では最初の封建権力である鎌倉幕府が成立し、封建社会としての発展段階を迎えていた。
しかし、その頃の沖縄社会は狩猟採集の経済段階にあり、原始的な社会状態であった。
人々の暮らしが大きく変化するのは平安時代末から鎌倉時代までの10世紀から12世紀にかけてのことである。
この頃から、沖縄各地の人々は交易商人を通じて海外との交易を開始した。
農耕に関する知識や技術、道具等も伝わり、沖縄でも本格的な農耕が開始された。
農耕の開始とともに人々は耕地に適した平野部に移動し、社会組織にも変化が見られる。
いくつかの血縁集団が結合し、農業共同体としてのあらたな地縁集団が形成されてゆく。
その地縁集団を母体として、アジと称される指導者が登場する。
力のある地縁集団は周辺の集落との交易や領地をめぐる争いを繰り返しながら、より大きな政治集団へと変化していった。
地縁集団の指導者であるアジはその過程で権力を拡大し、平野部に移り住んだ人々は、住居をしだいに高地へ移し、住居周辺を防御して行くようになる。
その防御された集落の中核がグスク(城)であった。
グスクとは一般的にアジが築いた構築物のことをさす。
沖縄の考古学ではグスクが構築された12世紀から15世紀をグスク時代と呼んでいる。
歴史学の時代区分で言うところのアジ時代から三山時代、統一王朝の成立と確立までの時代に対応する。
近年の歴史学では、薩摩侵攻までを古琉球と表現している。
日本で言う中世に相当する時代である。
古琉球時代は前期 中期 後期に分けられる。
前期は12世紀頃から尚巴志による三山統一、すなわち琉球王朝成立(1429年)まで、中期は王国の成立から尚真が即位する1477年頃まで、後期は尚真王即位から薩摩侵攻1609年)までの期間である。

3)近世琉球
1591年(天正19年)、豊臣秀吉から朝鮮出兵のための軍勢を動員せよとの命令を受けた島津氏は琉球の尚寧王に兵糧米の調達を要求してきた。
要求の半分は納めたが残りの半分は島津氏に借りて納めた、しかし経済的な余裕がなく、その返済が滞っていた。
この事がのちの島津氏の軍勢が沖縄に侵攻して来る口実となった。
島津氏は、幕府の許可を得て、1609年(慶長14年)琉球侵攻の軍を派遣した。
奄美諸島から島づたいに攻め込んでいる、戦いの経験が無かった琉球は、わずか10日間で敗れ、尚寧王と重鎮ら約百名は鹿児島に連行された。
琉球を侵攻した島津氏は琉球全域の検地を行い、琉球の石高を決定した。
徳川幕府は島津氏に琉球を領土として与え、中国貿易の窓口として、琉球を利用しようと考えていたのである。

4)琉球から沖縄県へ

開国によって目覚めた日本の人々は、徳川幕府を倒して明治政府を樹立した。700年続いた武家社会は終わりをつげ、以後急速に近代国家設立の道を歩むその過程で、琉球処分が行われ、琉球は沖縄県としてあらたな道を歩むことになる。
沖縄県政の始まり、いわゆる大和世の幕開けである。
県庁は那覇に置かれ、県職員は他府県出身者で占められた。
従来の身分制度は廃止され、王と王子は華族、アジ以下の士は士族、百姓は平民に編入された。
ただし明治政府の方針は、「沖縄は日本の国内に在っても本土からの遠隔地に在り、歴史や風俗習慣が異なる」、との理由から、旧慣をそのまま残し、急激な改革はひかえると言う政策であった。
沖縄県として日本国に組み込まれ、第二次世界大戦終結によるアメリカ統治までの間を沖縄県民は大和世とよんでいる。
第二次世界大戦における日本国の無条件降伏により沖縄県はOKINAWAとしてアメリカの施政下におかれる。
19725月沖縄県は本土復帰をはたす。
これ以降、今日まで再び沖縄県として歩んでいる。