密 輸
 終戦の年から1973年の本土復帰までの期間、沖縄の時計業界は独自の立場を利用して活況を程していた。当時、沖縄で流通していた腕時計のほとんどは、香港からの輸入であったと言う。そしてその大半が密輸品であったそうである。施政権を行使していた米軍もある程度見て見ぬふりをしていたのであろう。文字通り焼野原からの再出発となった沖縄経済は、強大と言われた米国の経済力をもってもそう簡単には立ち直らない。そこは民間の旺盛な自立的経済活動が不可欠なのである。
 沖縄で販売される腕時計が内地の半額以下であった事は前にも書いた。沖縄へやって来るビジネスマン・観光客が旺盛に買い求めた訳だが、沖縄から本土に留学する学生たちも大量の腕時計を携帯して行った。貧乏学生達は航路で本土に向う、そして誰一人として現金を持ち合わせなかったそうである。彼らはかわりに箱いっぱいの腕時計を持って行く。ベルトは付けずに1つ1つパラフィン紙にくるまれて菓子箱にぎっしり詰合せた。その数50個以下の者はいなかったそうである。売り先を心配する必要などない。港に着けば黙っていても本土のブローカーが寄って来たそうである。彼らはここでまとまった金を手にする。そして孤独な東京での一人暮らしの最初の糧としたのである。
光精堂の主人はうれしそうに私に1個の腕時計を手渡す。
「これね、僕が奉公の時に最初に僕が選んでね、輸入した物なんだよ。40年以上前になるかネ」
「密輸」私は聞き返した。
「覚えてないサー。鈴木さんに売ろうか」本当の事はごまかすのである。
「3個はあったけどネー今はこの1つだけ」裏ブタを開けるとなつかしそうに言う。
「古い機械が入っている あまり上等でないサー、でもね、これは結構いい物だったんだよ。5年前に掃除してある。そう書いてあるネ。でもこれは誰も使ってない新品だよ。古くなったから分解掃除しておいたの」
私は1万円を差し出し
「これでいい」と聞く。
交渉成立である。
アクティナと言う、聞いた事の無いブランドだが味がある。私はこういった物が大好きなのだ。店に座り込んで話しをしていると若者が入って来た。電池交換の依頼である。しかし店主は話しが止まらない。私の方がハラハラして「ご主人、お客さん、お客さん」と促す。ようやくあきらめて、いやいや電池交換である。「700円もらっとこうネ」それでも若者は主人に対して礼節をおこたらない。礼を言うと店を後にした。ここにいたってなにやら不思議に思い事情を聞いてみた。聞くと国際通りに有る宝装店で店には時計を扱える者がいないと言う。しかしこの店は名の通った宝装店なので店に持ち込まれる時計の修理や電池交換を断る訳にいかないのだそうだ。そこで光精堂の出番となる訳である。どうりで主人の態度が大きい訳だ。主人が弱みを握っていると言う事なのであった。私はお世辞ともつかぬ事を言う。「主人は意外とこの世界では有名人なのでしょうね」すると「なんでも出来るのは僕ぐらいかな」と不敵な笑みを浮かべるのであった。
私はこうした人に心から心酔してしまう。マイペースで穏やか、そして自信家である。主人は裏の作業場に入って行くと、何やらゴソゴソと探し物を始めた。持ち出して来たのはブ厚い名刺ファイルである。見せる名刺は那覇ダイエーの物であった。ダイエーの腕時計売場で修理物件が出ると、光精堂に持込まれると言う事である。本土に送るより安上がりと言う訳だ。なるほど業界には様々な裏事情があるものである。私は偶然とは言え、すごい人物とおもしろい店を見つけてしまった様だ。主人の昔話を聞くだけでも価値が有る。なんでも彼の先輩は、まだ何もなかった国際通りのひっくりかえった戦車の上に店を建ててしまったらしい。「建て替えた時は戦車を掘起こして捨てたよ」とすまして言った。
 雨期の沖縄はときより突風をともなってショーウインドウに激しく雨をたたきつけた。
雨でゆがんだガラス越しの風景は、主人の中で今も昔も変わらないのかも知れない。
涙でゆがんだ少年のあの日。