光精堂 3
 平成11年4月 光精堂に3たびおじゃました。
 ヤシカカメラ社が無い今日、30数年前のカメラ、ヤシカJ−3を修理できる数少ない店と考えたからである。
 光精堂は、戦後間もなく時計店として開業した。カメラの修理は後年手がける様になる。客の一人が、時計が修理できるのだから、カメラも直せるに違いないと考え、愛用のカメラを持ち込んだのである。素人の安直な考えであったが、店主にとってはこれが新しい事業のきっかけをつくったのである。
教わる人もなく、まったくの手探りでなんとか直す事が出来た。そこからまったくの独学で、カメラ修理の腕を磨き、これらの仕事もこなす様になっていった。
 当時沖縄県民のカメラ需要の大半が、ヤシカ ペトリといった、どちらかと言えば安価なメーカーの物であったと言う。とくに在沖中の米国人には、ヤシカの人気が高かったそうである。この2社の製品がよく売れたのは、「安かった」と言う事が最大の理由と考えるが、店主は、ヤシカの設計哲学が米国人に合っていたのだと言う。当時カメラ内の露出計は、針によるアナログ表示が一般的であった。そんな中ヤシカは、ファインダー内に緑2個、赤1個の豆電球を点灯させ、適正露出で赤のみを点滅させると言う、今日のデジタル機器的なからくりを採用していた。これが米国人にうけたのだと言う。
ヤシカカメラのサブネームによく使われる「エレクトロ」と言う名称は、このからくりに対する慣用句となって以後、長く使われている。徐々にではあるが、本格的に電子化されつつあったカメラの修理を、独学だけで乗り切るには、おのずと限界がある。ヤシカ製品の修理依頼が多かった訳だが、物によっては部品を調達する必要にもせまられていた。店主は決心し、日本のヤシカカメラ本社へ電話を入れる。諸々説明し、部品の供給をお願いした。意外にも親切な対応であったと言う。部品の供給も心よく引き受けてくれた。数日後、光精堂に送られて来た部品によって、多くのカメラが蘇った。
 数ヵ月後、店主はパスポートを握りしめ、那覇国際空港に立っていた。行き先は、長野県に在るヤシカ工場である。店主は工場見学を兼ねながら、修理に関する講習を受けるつもりであった。
当時、国内最先端のメッキ工場には、特に関心したそうである。なるほど、ヤシカのカメラは高品質なメッキでサビる事が少ない。ヤシカは余裕のある生産能力を生かして、他社製品のメッキ処理も請負っていたそうである。修理に対する講習においては、社外秘密と言われるクラスの設計図、修理マニュアル等も大量に譲り受け、沖縄におけるヤシカカメラの修理の拠点としてのお墨付きをいただいた。部品も継続的な安定供給を約束してもらっている。またたく間の数日間であったが、同時に実りの多い初渡航であった。
 沖縄に戻った店主は、手製の看板を掲げる。
そこには誇らしげに金文字で 「YASICA CAMERA Service CENTER」と書かれていた。
 公式の物ではなかったが、1960年当時、沖縄でヤシカのカメラを純正部品で完全に修理できたのは、ここ光精堂だけであった。