柱時計
 いつ店の前を通り過ぎても、必ずガラスケースの前に立って作業をしている光精堂の主人、又吉氏は、機械物が大好きだと言う。7月の頭に、自宅の柱時計の修理をお願いして早3ヶ月。いっしょに家内の、カメさん印腕時計もオーバーホールをお願いした。この時計は、去年光精堂で買い求めたものだが、自動巻きの機構に問題が生じているらしく、夜腕からはずしておくと朝まで作動しない。これでは自動巻きである事がかえってわずらわしくなって来るので、修理をお願いした。柱時計の方は、母家の建設と同時に祖母が父にプレゼントした物だから、45年位前の代物である。これが2年程前にネジを巻上げた瞬間に、何かにひっかかったように動かなくなった。巻上げっぱなしでは、ゼンマイがヘタると気が気ではないが、気に入った修理人が見つかるまでに2年過ぎてしまった。
 家内の実家への里帰りに合わせて、大荷物をはるばる沖縄に持ち込んだ。どうしても又吉氏に修理してもらいたかった。勇んで持込んだのはよいが、又吉氏は沖縄の人であるから、内地の人間とはリアクションが違う。
「あ いいですよ。直しておきましょうね。」
なんとも平常心だ。
わざわざ遠路沖縄まで持込んだのだから、もう少し気合を見せてもらい所だが、そこは琉球人、文字通り海戦山戦の生き残りである。
 1945年、連合軍の沖縄上陸の数日前、又吉氏は両親に連れられ、兄弟と共に本島北部に疎開した。米軍上陸の数日前から目に見えて空襲が激しさを増し、那覇の町は壊滅状態であったと言う。しかし、これはその後に起る悲惨な地上戦のほんの前ぶれに過ぎなかった事は、その後の歴史に明らかである。
 北部に逃げた又吉一家は運が良かった。南部に逃げた人々が米軍に追い詰められ、どの様な最後を迎えたかよくご存知の事と思う。
又吉氏らは、小さな山の中に身をひそめた。後を追った米軍は、ぐるりと山を取り囲むようにして陣地をかまえたと言う。飢えに苦しみながら、この状態のまま沖縄戦の終結を迎えたと言う。人々の飢えを救ったのは、又吉氏をはじめとする子供たちであった。子供たちは空のバケツを手に山を降りる。銃口を向けてはいるが、米兵は絶対に子供には発砲しなかったそうである。そしてバケツいっぱいの残飯をもらうのである。これが毎日の日課であったそうだ。チョコレートやビスケットをくれる米兵もいた。中には一日の大半を米兵と遊んで暮らす強者もいたらしい。
「彼らはやさしかったよ。我々の時代は、アメリカ様々だったよ。アメリカの物は、どれも上等だったさ。」と、なつかしそうである。
 沖縄戦終結と同時に、又吉氏らは強制収容所に移動させられた。ここでの生活は、敵の銃弾に怯える事はなかったが、マラリアの大発生と言う、悲惨な事態を招いてしまった。長期に渡る栄養失調から、老人や大人たちが次々と倒れていった。ここで又吉氏は母を失う。
「疲れていたんだろうねー熱が出てからさ、3日目だったよ。夏なのにね、寒い寒いってガタガタ震えているのよ。びっくりして見てたさ。」
「つらかったでしょうね」
私は言葉を失いつつも聞き返した。
「子供だったからね、囲りもそうだしそれほどでもなかったよ」
笑ってみせる店主であるが、言葉通りに受け取る訳にはいかない。
 修理をお願いして2ヶ月を過ぎた頃、いくらなんでも時間がかかり過ぎると、少々腹立たしく思う様になった。
“店主はやる気があるのだろうか?”
疑心暗鬼におち入っていた私を、今は恥ずかしく思う。
東京の人間は、せっかちなのである。
 3ヶ月目に戻って来た時計を見た時、正確には動かしてみた時、私はつくづく反省してしまったのだ。しかも家内が、カメさん印の腕時計が元気に戻って来た事に、いたく喜んでいる様子にも少し驚いてしまっていた。これらの時計の修理は完璧であった。見るからに完璧であり、さわってみて動かしてみて、さらに完璧である。3ヶ月かけて調整に調整を重ねた店主の意地と、愛情を感じる事が出来た。私の店主に対する敬愛が店主にも伝わっていて、完璧な仕事をさせたらしい。これで修理代5千円と言うのだから、もはやビジネスの域を越えている。
 柱時計の作動音は、格段に小さくなった。これは、部品の精度と組立て精度が復活した事を証明している。柱時計は、数十年使い続けると軸受けがすりへり、心棒をささえる穴が大きくなってしまい、ガタガタになると言う。見せてもらうと、なるほどはっきりわかる程心棒が遊んでいる。この大きくなた穴のまわりをたたき一度穴をふさいだ後、再度精密に穴をあけると言う。この作業を全ての穴に行い、同時に歯車の精度を整えてゆく。そして再度、組立てるのである。この作業そのものは、一週間もあれば充分だという。大半の時間を店主は、機械をなじませる事と調整に注いだ。
実際9月におじゃました際、我家の柱時計は店の壁で時を刻んでいたのである。直っているものとばかり思っていたから、その後の一ヵ月半が長く感じられたのであった。繰り返すようだが、ここまで調整を重ねなくても修理そのものは終処している。実際そうして納品してしまう修理業者も多い事だろう。しかし、店主は納得するまで修理を終わらせる事がなかった。
私はこの事に感動する。そして一つ教訓を言えば、又吉氏に限らず修理人をいそがせてはならない。実直な人ならば、時間をかけた良い仕事をしてくれるはずである。また同時に、精密機械の修理は本来この位の時間をかけなければ納得出来る仕事にはならないのかも知れないと考えている。