濱田庄司
前回のエッセイ アメリカ−は上等サーにおいて
沖縄のオバ−の話から いつのまにやら
沖縄陶芸 更には浜田庄司の話に及んでしまった。
こうした脈絡の無さが 個人HPの面白いところ
お許しいただきたいと思う。

エッセイのなかで 浜田庄司 談
「沖縄に学び 益子で育った」という語録を紹介している。
天下の名工 浜田庄司が最果て沖縄でいったい何を学んだと言うのか。

良い資料が見つかったので紹介する。

水尾比呂志編著 「近代日本の陶匠 濱田庄司」より転載する。

「壷屋の道は古風な石垣に囲まれ、曲がり角には今も残る
ガジュマルがあって、今と同じように子供たちが登っていた、
小さな池もあって、白いアヒルが泳いでいたが、赤いとさかが
めずらしかった。細工場の前は見渡す限りサトウキビ畑が
拡がっていた。私たちは細工場に入り、縁側に腰掛け、
台所を覗き、女たちの候う文体の会話を耳にして、裏も表も無い
ありのままの暮らしに強く打たれた。京都の陶家の様に技法を
隠して護ろうとする匂いは少しも無い。蹴轆轤での形作りでも、
釉の合わせ方でも、何という爽やかさで片付けられているのだろうかと
うらやましかった」

彼にとっての壷屋は、沖縄は、益子からさらに遡って返って行く故郷
のような場所となっている。
益子に定住した後、濱田はほとんど毎年 足繁く沖縄に渡り、長期短期の
滞在を繰り返した。
勿論その間、壷屋で製作し、貪欲に壷屋の心と技を吸収し続けたのだ。
「沖縄で学び」と彼が言ったのは、壷屋の技もさることながら、
その技に啓示されている工藝の摂理を学び、故郷の心を我が心にする
ことを学んだ、という意味なのである。

「仕事の根になる暮らしが、私たちとは較べものにならないほど強く生きている
のを想わせる。技術の上で受け継いだ伝統は、形の奥の見えないところで
守られ、たとえば器に絵付けをしてなおよくなるということは私達にとって
なかなか難しく、気の重いことだが、壷屋の陶工達は、いつもくったくなく
行われていて、どれも愉しい。それだけに自分で作品の結果を選ぶことが
不得手だが、解からないでいい仕事をしていることは、どんなに素晴らしい事か。
私達はとうにこういう無意識の創作力を失って久しくなるので羨ましい限りだ」