護佐丸

護佐丸とは琉球の戦国時代 勇名をはせた沖縄の英雄 戦国武将である。
wikipediaによれば以下の通り
山田城主の子として生まれた。生年不明 1416年、尚巴志(しょうはし)に従い北山討伐に従軍し、今帰仁城を攻め落とす。同城に監守として配置された。 1422年、山田城の南西約4kmに座喜味城を築城し、そこに移る。 この築城には、奄美諸島から労働者を駆り出したと言われており、護佐丸の勢力が奄美諸島にまで及んでいたことがわかる。 1440年対外貿易で力をつけていた阿麻和利に睨みをきかせる為、王府の命により、中城城(なかぐすくじょう)に移り、城を改築、軍備を増強する。 この軍備増強に阿麻和利は眼をつけ、王府に護佐丸に謀反の動きありと告げた。1458年、尚泰久は護佐丸討伐のため阿麻和利を総大将に任命し、中城城を攻め落とす。沖縄の民話では、このとき「護佐丸は城を包囲しているのが王府軍と聞くと一切反撃せずに妻子とともに自害した。

下の写真は護佐丸使用と箱書きのある湧田焼き鉄絵椀である。
所有者の熱い思いが伝わる逸品だが残念ながら護佐丸はこの碗を使用していない。
箱書きにある1422年はなるほど護佐丸全盛の時期で琉球王 尚巴志の命で座喜味城を築城した時期である、一方この湧田焼きは琉球への島津藩侵攻以降の物すなわち島津藩により殖産された窯場の物であり1609年以後の物である。
じつに200年近い時代の開きがあり護佐丸使用はあり得ない話なのである。
何を書くのもかってだが根拠なき思い込みは自分自身にウソをついているのと同じである、こんな事をしていったい何が楽しいのだろう。