朝貢貿易

倭寇のもたらした海上交易の混乱から明朝3代皇帝 永楽帝は国内の自由貿易を禁止し臣従する国とのみ外交を開く朝貢政策を行った。
明国は台湾より大国と考えられていた当時の琉球に対し朝貢要請の使者を送っている。
これを受けた琉球はその後大航海時代を向かえ大きな発展を遂げた、30年間に30艘以上の進貢船を送っている。
南海の貿易王と言われた尚泰久は1458年首里城正殿まえにかけた鐘で「琉球国は南海の勝地にして三韓の秀を集め大明をもって輔車となし日域をもって唇歯となす この二つの中間に有りて湧出する蓬莱のしまなり」と謳った、万国津梁の鐘がそれである。
当時 明国との朝貢貿易を行った国は琉球のほかに李氏朝鮮 安南の三カ国である、このような事情からいずれの国も当時の先進国中国文明の影響を色濃く受けている。
首里城は明らかに中国式の城であるし他に名高い紅型 漆器 彫金なども全て中国様式である。
他の二カ国も似たようなもので当時いかに中国の影響力が大きい物であったか現在では想像出来ないほどである。
さて中国文化の代表的な文様と言えば龍紋である、首里城には昇龍 正龍 降龍 様々な龍紋が踊る漆器も彫金も明らかに中国式でこの例に漏れない、更には王朝の公共施設、石橋や建造物 玉陵なども例外ではない。


               
木製漆塗 18世紀 浦添美術館

ところが今回問題にしたい事は琉球の陶磁器に関しては全く龍紋が存在しない事である。
(廃藩置県の後 琉球王朝消滅後は何でもありで現代作家のものも含め多く見受けられる)
李朝の陶磁器に龍紋は有る安南にもある当時明国との朝貢をしていなかった日本の特に伊万里焼にも沢山あるのにである.
これはどう言う事なのだろうか。
幾つかの仮設を述べたい
第一に陶器は王朝文化とは関係の無い庶民の物であった。
第二に陶器だけは中国の影響を受けずに唐津から入った。
第三に大半は戦災で消滅したが本来は存在している。
第四に琉球王朝が龍紋の使用を禁止していた。
第五に龍紋の刻まれた工芸品は輸出用で内需に龍紋の需要はない、陶器の国際競争力はなく輸出の実績も無い従って伝世品もない、なお城内、公共建築物に龍紋があるのは明国からの朝貢使を迎えるためである。
以上思いつくままに述べたが本格的な研究は発掘調査を待つよりない、琉球大学あたりが本気で研究して頂けたらと思う。
なお最近 県内の考古学研究が嘗てほどの盛り上がりが無く停滞していると聞く、経済発展最優先で歴史を顧みる余裕が無いのである、しかし自国の優れた文化 県民性を無視した経済発展など歪で醜いものだ、もっと言えば己のル−ツを無視した経済発展などありえないと思うのである。