泡盛と壺屋焼

泡盛。

琉球の文化を語る上で欠かす事の出来ない沖縄独特の酒である。
泡盛は15世紀頃シャム、今のタイから伝わったと言われている。
泡盛が原料を今でもタイ米にするのはこの為である。
本土においててタイ米の輸入が開禁されたのは最近の事だが、沖縄においては泡盛製造の為例外的に古くから認められて来た。泡盛の持つ独特な香りはこのタイ米に負うところが大きい。
泡盛は蒸留酒である。
古酒(クース)と呼ばれる40年物も存在する。
カメに入れられた泡盛は暗所に置かれ長い時間をかけて熟成する。
熟成のポイントは使用されるカメだと言われる。壺屋(地名)で製造される荒焼は、泡盛に適する。この荒焼で熟成された泡盛こそが本物の泡盛だと言えよう。
荒焼に入れられた泡盛は呼吸をしている。入れたままにしておくと減っていくのである。たまに新しい泡盛を注ぎ足す事が必要である。荒焼に使用される沖縄の赤土が長い年月を経て酒に染み出し、琥珀色になる。こうなったら本物の古酒の出来上がりである。泡盛を上手に育てるコツそれはカメにあるのです。


壺屋焼は我国において独特な焼き物だと感じる。

本土の焼き物が中国系か朝鮮系のどちらかに大別できるのにたいして壺屋は明らかに南方系である。
よく似た物がタイで発見できる。
壺屋焼は泡盛とともにタイから伝来したのに違いない。(古い壺屋には安南(ベトナム)で焼かれた物のうつしもある。)
東恩納先生の「泡盛雑学」という論文がある。前記の部分と重なるが、これによると泡盛はタイ国のラオロンという蒸留酒の製法を教わって5,6百年前に沖縄でつくったものとされている。当然その酒を貯蔵する容器の製法も教わったと考えられるのである。
その頃読谷村は南方貿易の港であった。
「南島風土記」によれば現在読谷村にある花織とかティサージは純然たる南方系のオリモノで、読谷にはこうした南方文化がどんどん入ったとされる。
焼物の製法も泡盛とともに南方から教わって最初は読谷山の喜名で焼き、しかる後、知花に移って知花焼になったとされる。(戦前までは窯跡があった。)
そして現在の壺屋へと引き継がれてゆく。


壺屋は現在那覇市の中心街に在る。
戦後那覇が次第に膨張したために今では市のど真ん中に位置する格好になってしまったのであるが戦前の地図を見れば壺屋村は那覇市のずっと東端にあった。
地形を見れば丘の斜面を利して南に面して作られ、丘の斜面はそのまま登窯に適していた。
水と土に恵まれ、市場は近く物流の要、泊港も近かった、上焼(高級品)用の土や薪などの仕入、製品の出荷に適した。
崇元寺橋で陸上げ壺谷までは馬車で運ばれたと言われている。
沖縄の人々のあらゆる生活の中で使われた壺屋焼であっるが、官窯としての一面も持つ、王府は焼物造りに積極的であった。その証拠として陶工の中で特に功績の大きかった者は親雲上(ペーチン)の位を与えて士族に列している。
文献によれば壺屋には7つの御拝領窯があったと言われている。考えるにかつての壺谷焼は官窯とまではいえないまでもそれに近い性格を持っていた様に思う。

金城 次郎  作

先の大戦で離散していた陶工達が再び壺屋でめざした。
その数103名であったと言う。
戦災ですべてを失った沖縄、文字通り再生の狼煙を上げたのがここ壺屋であった。瓦をはじめとして日用品の類は沖縄再生になくてはならない物であったのである。
1972年以後那覇市街地の拡大から壺屋では薪を使った登り窯の使用が出来なくなっている。登り窯にこだわる者は、壺谷焼発祥の地、読谷村に戻って行った。
この地は壺屋を追はれた者の恥辱の地ではない、壺屋のふるさと原点と言える場所だ。現在壺屋にはガス窯か電気窯を使う陶工が集まる。
壺屋通りに約30件の店が軒を連ね、中には読谷の喜名から王府の命令で壺屋へ移った新垣家の分家筋にあたる新垣製陶所7代目の店もあったりするから要注意である。
新垣一族は壺屋で310年、それ以前の読谷時代もやちむん職人であった。


新垣 薫  作