アメリカ-は上等サ-に関する一考察

第二次大戦以後 沖縄を統治したアメリカ軍は 県民の不安 不満 解消の為

大量のアメリカ産 物資を沖縄に持ち込んだ。

それまでの食うや食わずの時期から一転 一夜にして県民の胃袋を生活を満たす事になる。

沖縄県民はさぞかし胸を撫で下ろした事だろう。



50年代のレ-ションは缶詰が主の紙箱入りでした。


私の沖縄のオバ-は当時 小学生で、そんなアメリカ製品の恩恵に浴したコアな世代である。

生活が安定するだけではなく、強烈なアメリカに対する憧憬が芽生えた。

だからオバーは今でも口癖のように「アメリカーは上等よ」と言う。

アメリカ製は、とても良い物という意味である。

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オバーの買い物は今でも マチヤグワー 家財道具はR58である。


       ROUTE 58






今の若い人達の流行情報雑誌的アメリカへの憧れとは次元も真剣度も一桁違うのである。

なにしろアメリカ製品が無ければ生きて行けなかった、生命の危機を救ったのがアメリカーなのである。


オバーは戦後の一時期 家政婦として米軍住宅に勤めた。

だから今でも時々 英語らしきものを話す。

車を運転していて割り込まれると 「ガッテミー」と吐き捨てる。

私の息子、つまりオバーの孫だが 遊びに行くと

show君(壮君)お昼はスパゲリィーでいいね?」と聞く。

(沖縄方言はさ行の発音が不得意である。したがって そう君がしょう君になってしまう。

 は行が不得意な江戸弁、ひがし(東)が、しがしになってしまう東京とは対照的である)

Cランチ


さとみの息子はまだ小さくて高い高いをする時は「ワン ツゥー ツゥリィー」である。

オバーの飼っている三匹の猫の名は ジョン ビビアン ステファニーいずれも家政婦時代の雇用主の名である。

そんな訳でおいたをしたジョンを怒るときのオバーには殺気すら感じる。

まあそんなことはどうでもよろしい。

 

アメリカ-は上等であると言う仮説に対して長年 沖縄県でアメリカ製品のサンプリング及びウォチングを行ってきた。


大きい重い でも素敵なアメ車達

 



 

  

この救急車 異常に大きいと思いません。

 

皆さんよくご存知の マグライト(アメリカ製)

 

右は日本製 左はアメリカ製の南京錠 重い重すぎる!

 

50年代のアメリカ製マグカップ 丈夫だが恐ろしく重い 最近流通している日本製

あるいは中国製の3倍の重さである。

結論

「アメリカーは上等サーでも重いサー」である。

「アメリカーは上等サー」は間違っていない。

少なくとも50年代までは。

 

話は違うが沖縄県が生んだ陶工 人間国宝の金城 次郎の長男 敏男さんの作品は驚くほど重い。

真贋の見極めポイントなのだが、敏男さんもアメリカーは上等サーの世代なのである。

敏男さんは父 次郎 と共に戦後の壺屋焼きを復興させた功労者である。



次郎ばかりがもてはやされるが壷屋時代の金城作品は父 母 息子の共同作業なのである。

当時の壷屋焼きは今ほど評価されたいたわけではなく なかなか売れずに苦労していた。

敏男さんはリヤカーを牽いてカデナの町まで米軍相手の行商をしていたそうだ。

売れるポイントは「重くて丈夫なこと」とある時 気が付いた、あるいは無意識にそういうことになったのかと想像する。

私は敏男さんの作品は あの頃の沖縄社会が生み出した二度と作られることの無い最高傑作であると思っている。

 

魚紋 花瓶 高さ20cm

魚紋一輪挿し  分厚い高台 丈夫であると同時に大変重い作品である。

 

アブラガミー (油甕)沖縄伝統の形 ラ-ドを入れる為の甕

これまた強烈な高台である。

 

US軍用マグカップと敏男作品 存在感で負けていません。

 

金城次郎さんの話も少ししましょう。

次郎さんは沖縄県民初の人間国宝である。

柳宋悦 浜田庄司 河井寛次郎ら民芸運動の重鎮に見出され世に出た。

特に浜田庄司は坪屋の焼き物に魅せられ 足しげく沖縄に運び壷屋こそ民芸の本質と述べている。

「沖縄に学び 益子に育てられた」とは後世 浜田の述べた有名な言葉である。

 

次郎さんは自らを陶工と名乗り陶芸作家と言われることを好まなかった。

そこに次郎のプライドを見出すことが出来る。

作陶は大変な重労働である 彩土に始まり土踏み 轆轤 釉薬の調合 窯入れ 窯炊き 窯出しなど。

下の次郎さんの写真を見て頂きたい まるでプロレスラーの様な体格である。

これの意味することを説明する必要は無いだろう。

芸大出の新鋭作家の作品がその迫力で次郎作品の足元にも及ばないことが理解できる。

  

緑釉指描唐草文壺コバルト線彫魚文壺

緑釉指描唐草文壺 径30×43      コバルト線彫魚文壺 径25×26 1949

 

 

次郎さんは生前 雑誌のインタビューに次の様に用に答えている。

 

先生の作品は魚の模様が多いのですね。

これに対して

「沖縄は島国で周囲は海だからね。海の生物をテ-マにした」

「実写でなく自然だよ」

力強さと躍動感に溢れた次郎作品、次郎さんは他の作家のように魚や海老を描いたのではない。

次郎さんが描いたものは自然そのもの、次郎さんにとっての沖縄 愛すべき古里だったのである。