| 動物機械(アニマルマシーン)2 |
| マルクスはそのすばらしい想像力によって、人間と道具の連続性をある程度考察するまでに至った。 マルクスは身体的にはともかく、社会的、文化的、存在としての人間の進化と道具の発達との分かち難い関連に気づいていた。しかしながら彼は、現代の複雑な機械の形をとった道具が、理論的に連続体をなすと言う事までは予見しなかった。 人類は、自分自身と機械との境界を克服する決定的な時点にさしかかっている。このテーゼは二つの部分からなる。 一つは、人間が今や自分自身の進化を道具(機械もその延長線上だ)の使用及び発展と不可分に絡み合ったものとして考えることが出来るようになった為に、境界は解消されると言う事である。現実問題として、もはや機械をもたない人類なんて考える事が出来ない。もう一つは、こうした境界に橋が架けられるのは、人間が自分の活動と機械の動作とを同じ科学的概念で説明できる事を知り、さらには物資の進化、つまりはるかな星々において水素と言う基本材料からヘリウムが生まれ、さらに炭素原子核から鉄へと進み、そして宇宙空間で爆発が起って、われわれ太陽系を生み出すにいたる事を理解していると言う事である。すなわち、そうした進化によって、物資に内在していたパターンが地球では有機的生命の構造となって発展し、現在われわれのもつ思考機械のアーキテクチュアの中に反映しているというふうに認識すれば、断絶は克服されるということである。もちろん人間と機械にまったく違いはないなどと主張するのは、人間と他の動物に違いがないと主張するのと同じく馬鹿げている。だがそこにおける違いとは、程度の違いなのである。ここで主張されているのは、我々にはショックかもしれないが、人間と機械とのはっきりした境界は、もはや維持する事が出来ないと言う事なのだ。 次に17世紀の「動物機械」と呼ばれるものへ注目する事からはじめる。 ここではデカルト主義と反デカルト主義、及び動物と機械に対する両者の態度についての議論が渦を巻いている。ただデカルトは、魂を持つ点で人間を他の動物から区別しておきながら、他の動物は機械にすぎないと論じている。まさに18世紀にラ・メトリが行ったように、もしも人間機械から魂を取り除いたら、人間もまた機械にすぎなくなるのである。 |