ヤシカJの魅力
1961年、ヤシカは同社最初のM42マウント一眼レフカメラ、ヤシカペンタJ(ジャガー)を発売した。当時の価格で、29,500円(レンズ付)。この時期、3万円を切る値で、一眼レフを販売しているメーカーは他に無い。キャノン7が約6万円、ニコンFが8万円位であったから、相当に割安感があった。普及機を目指した力作である。
ヤシカはその前年、独自マウントのヤシカペンタを発売しているから、わずか1年足らずでのマウント変更である。カメラ本体は一部分デザイン変更、構造の簡素化が行われている。しかし基本的には、この2つのカメラは同一の物としてよい。
M42マウントは、戦後東ドイツ、ペンタコン社で開発された規格で、公開規格であった為に世界中のカメラメーカーが採用した。我国でも、ペンタックス、リコー、チノン、コシナ、ヤシカ、フジ、コニカ、オリンパス、ペトリなどが採用している。ネジ式マウントなので、時代遅れの感もあるが意外と好評かつ長寿であった。今日でも、ロシア製一眼レフ、キエフは、M42マウントである。
ネジ込みと言う、古典的かつ確実な接合方法は、戦前はポピュラーな手法であったが、この頃には、各社優秀なバイオネットマウントを採用する所が多く、M42マウント イコール 普及機と言う図式が成り立っていた。M42マウントは、世界中に昔今の安価で高性能な物が存在しているので、レンズ選びに自由があり、他社製品が使えると言うメリットがある。したがって新興の一眼レフメーカーは、M42マウントを採用する事によって、自社製レンズを幅広く開発しなくても済んでいた。
そんなカメラ達の中でも、ヤシカJは魅力的である。デザインに他社にはないオリジナリティを感じる。鋭くとがったペンタ部分は、あきらかにニコンFの影響を受けているにもかかわらず、このカメラは他にないオリジナリティーを感じさせる。
この時期、大手カメラメーカーは、それなりの製品ラインナップを持っていて、一眼レフデザインも各社完成されつつあった。各メーカーごとの個性は、その後現在まで引き継がれて行く物も数多い。しかも他社は一眼レフ造りにおいて、慣れの様な物も持ちはじめていて、この時代なりの破状のない安定した品質と外観を持ちはじめていた。
今日では、中古市場でレア物扱いされている物でも、実際にはかなり大量に造られた物も多い。そんな時代にヤシカJは、他社製品と造り込みが違う事を実感出来る。
ヤシカJは意識過剰なのだ。普及機であるのに、手間をかけた仕上げと手造りな感覚、作り込み。最高のクロームメッキ、角の鋭いコストのかかるデザイン、最上級のファインダーと、いかにもアンバランスなのである。実際にこのカメラは、コストがかかりすぎたのだろう。わずか1年の販売期間中に、一度設計変更している。後期と思われる機種は、シャッターダイヤルのB(バルブ)とX(シンクロ)の表示が、一般的な順例に変更された。前期の物は、BとXが通常の順例外に特別に設けられている。こまかい所では、背面のYACICA Cameraの刻印も省略されている。そしてわずか1年後の1963年、ヤシカJ−3に取って替ったのが、なによりの証拠と考える。J−3は、この時期のありふれた並及機の形・表情をしている。いかにも安物なのである。ヤシカJは、ファーストモデル(厳密にはセカンド)と言う一種の気迫が作ったカメラであろう。技と経験そして設備が及ばなかったからこそ、作り出した入魂の作である。結果的に出来はすばらしい。コストを意識しはじめたJ−3と比較すれば一目瞭然である。ライカMも、ニコンFもコスト削減の歴史であったのだから、ヤシカなど、押して知るべしである。
私はこのヤシカJと同じ表情をしたカメラ達を知っている。1945年から1950年にかけて造られた、ニッカとレオタックスである。この時代の両者の製品には、造りのよさと、情熱を感じる事が出来る。プアマンス ライカなどとバカにする者は、一度手に取ってみるといい。戦後間も無い困窮の中、なんとかしてカメラを造ろう、金をかせごうと、よせ集めの部品を1点1点調整しながら、カメラを組み立てた。この時代の日本人のエネルギーが、情熱が凝縮されて伝わって来る。考えてみれば、ヤシカJはヤシカに吸収合併されたニッカが作ったカメラであるから、当然の事かも知れない。1940年代に技を鍛えた職人が、まだ数多く残って居たであろうから。