梅紋






梅の文様が好きです。
特に昭和の名も無き名人が描いた手馴れた民窯の筆捌きに心酔します。
どうした訳かと思っていたら最近気が付きました、やはり原体験に梅紋が有るようです。
過去に書いたブログが以下のとおりです。
                        2011−11−21

昨年の年末、母屋を掃除していたら茶箪笥から写真のぐい呑みが出て来てきました、あのぐい呑みは何処に行ったんだろうかと最近気になっていたのでとても懐かしかったです。
私は千代田区立の中学に通っていて下校途中の上野松坂屋で時々寄り道をしていました。
当時松坂屋には中二階に美術売り場があってその日は何の気なしに美術部を冷やかしていた訳です、恐ろしく場違いな子供がうろうろしている訳で子供だからこその図々しさでした。
そして写真のぐい呑みを見つけました、「なんてきれいな器なんだろう!!」今でもはっきり覚えています、値段は五千円でした。
当時普通の家で使う器は有田の染付飯碗や味噌汁椀、貰い物の明治牛乳とかロゴが入ったコップなどでこんな志野風九谷焼の器など見たことが無かったのです。
翌月に私はこのぐい呑みを買ってしまいました、そして暫くの間年に似合わぬ陶芸趣味が続くのです。
その後興味がカメラに移った事もあっていつの間にやらお蔵入り、再発見の折には親父にあげたのです、そして昨年末に37年ぶりの再会となりました。
このぐい呑みは使っていないはずなのに随分沢山日本酒を吸った跡がありました、母に聞いてみると「とうさんは毎日使っていたわよ」と言います。
大学時代は家を空けることが多く、卒業と同時に就職で一人住まい、家に帰ると同時に結婚して自分の家庭の事で精いっぱい、親父と酒を酌み交わすことなんてなかった、きっと親父はこのぐい呑みを使って「俺と酒を飲んでいたんだ」なんて勝手な想像をしていたら泣けて来ました。
どうしようもなく泣けて来て酒が沁みます。



さてこのこのぐい呑みは銘を「寒梅」といたしましょう。

寒  梅(かんばい)を新島 襄(にいじまじょう)は次のように詠っている。
                             同志社大学HPより
庭上の一寒梅
笑って風雪を侵して開く
争ず又力ず
自から百花の魁を占しむ

【通 釈】
庭先の一本の梅の木、寒梅とでも呼ぼうか
風に耐え、雪を忍び
笑っているかの様に、平然と咲いている。
別に、争って、無理に一番咲きを競って
努力したのでもなく、
自然にあらゆる花のさきがけとなったのである。
まことに謙虚な姿で、人間もこうありたいものだ。
【語 釈】
寒梅=寒中に咲く、早咲きの梅。
(梅は学名ではなく新島襄が呼んだ名)
庭上=庭前、庭さき
風雪=厳しい情景を象徴した言葉。
“蛍雪の功”の言葉もある。風のも負けず、雪にも負けず。
侵=忍びがたいのを耐え忍ぶ。
力=つとむ。力を尽くして行う。
占百花魁=あらゆる花の先頭に立つ。「魁」は、まっさき。第一番。
「占」はしめる。自分のものとする。独占する。 自=“おのず”からと読み自然とそうなったの意の方が良い。
“みずから”では「自分から」の意になり力がこもって、謙虚な趣がなくなる。
自然体の方がよいと思う。
【鑑 賞】
風雪をしのいで、どの花よりも一番咲きに咲いた梅を「寒梅」と称し、
苦節試練に耐えながらも、争わず、無理をせず、終始ゆとりを持ち
自然体で、ついにおのずから世の先覚者、指導者となった人物に
たとえたのであろう。それは、襄自身の体験、実感を詠んだものと
感じる。梅を詠じた詩は多いが、王安石の詩に、
牆角数枝しようかくすうしの梅、寒を凌しのいで独り自みずから開く。”
(以下略)の五言絶句があり、襄の「寒梅」はこの承句に触発されたものと
思われる。
【新島襄】(1143-1890)
明治時代の宗教家、教育者。京都にキリスト教主義の
同志社を創立、西欧文化の普及に貢献した。
天保十四年正月、上州安中藩板倉家の江戸一つ橋邸で生まれる。幼時から漢学を修め、藩主の命で、杉田玄白について、蘭学を学んだ。
十六才の時海軍伝習所にはいる。
二十二才の時、上海に密航、後アメリカに渡った。後、ボストンのアマースト大学に入学、その後アンドヴァー神学校に学んだ。
明治四年、訪米大使、岩倉具視ともみ案内役として欧州に同行。
門下に徳富蘆花・浮田和民。

                              2011−1ー21