男はつらいよ
 男はつらいよフーテンの寅を見た。
八千草かおるがマドンナ役の旧作である。この映画の中の、寅次郎のセリフが印象に残っている。寅は密かに恋している、八千草かおるの所へ行く為、店のおばちゃんに嘘をつく。
「ちょっくら駅前で、時計でもなおしてくらぁ」
現在であったら誰も信じないセリフである。しかし当時は、普通であった。時計はたいてい駅前か、駅付近に必ずあった時計屋で直すものであった。分解掃除で、たいていの時計は蘇ったのである。今日では、分解掃除という言葉自体死語となっている。町の人々の腕時計や、柱時計の正度は、その町の時計屋の腕一本にかかっていた。
青戸の駅前にあった長瀬時計店は、間口一軒ほどの小さな店で、修理専門であった。夕方、会社帰りのサラリーマンやOLで、日によっては、小さな店の中に2・3人の客がいたことを覚えている。この店に2・3人、小学生だった私を入れて4人入ると、ちょっとした満員電車並であった。修理道具が整然と並べられた店内。木製作業台の上には、小さな歯車やねじ、ゼンマイが風でとばされぬよう、細かく仕分けされ、小型のコンポートカバーが、かぶせられていた。客との話が終ると、やおらコンポートカバーを取り去り、作業の続きをしている。そのとなりでは、順番を待つかのように、白い紙をこよりにして時計に巻きつけ、そこに客の名前が書かれた時計達が並んでいた。1日何個位修理出来たのだろう。今となっては、話を聞くことも出来ない。小学生の時、父の腕時計を直してもらった。スモールセコンド付のティソで、戦後間もない頃の製品である。
『この時計はいい時計なんだぞ。銀座の和光で買ったんだ』
父の言葉を思い出す。
実家は、青戸でも指折りの旧家である。今ある建物は、戦後建てられたもので、それほど古くはないのだが、それでもこのあたりで黒瓦木造の家は、ここ1軒だけである。大黒柱には新築と同時に買った、柱時計がかかっている。週1回ネジを巻くのは父親の仕事であった。その為の踏み台もあった。我家にもやがてクオーツ時計がやって来る。私が高校生の頃のことである。そのクオーツ時計は、大黒柱ではなく、居間のテレビの上に掛けられた。しばらくの間は、振子時計もネジが巻かれ、我家では、2つの時計が時を刻むこととなる。しかし、しばらくすると振子時計は、ネジを巻くのを忘れられるようになり、いつしか止まったままになっていた。私はその時計を、自分の部屋に飾ることにした。SEIKOSHAの文字が、とてもめずらしく感じたのだ。しばらくたったある日、めずらしく祖母が私の部屋にやって来た。この時計はいい物だから、大切にするように言う。父親が新築した時に、私が長瀬時計店で買ったとのことだ。なにしろこの時計は、いい物だと念をおす。その祖母も数年後に亡くなった。考えると、祖母の残した唯一の物である。今は、私の家で年に一度思い出したようにネジを巻いてやる。時報を知らせる鐘の音が、子供のころにタイムスリップさせてくれる。時計の正面を開けると、万年筆で長瀬時計店、電話番号等書かれた紙が取り付けられていた。