『どこまで中国に喰われ続けるのか』 黄 文雄著
よりの抜枠です。(話半分で読んでもこの本は面白いですよ)
ひと昔前、賭博を皮肉ったジョークが流行った。「十億人民九億商、還有一億等開帳(10億の人民のうち9億人は商人で、残る1億人は丁半バクチをやっている)」。最近では、さらに次のような戯れと言となっている。
十億人民九億賭、還有一億在跳舞
10億の人民のうち9億人は賭博に熱中し、残る1億人はダンスに熱中している
十億人民九億賭、還有一億在受苦
10億の人民のうち9億は賭博に熱中し、残る1億はなおも苦しんでいる
民衆の共産党への思いはどんどんしらけており、よく諧謔の対象となっている。
提到共産主義就冷笑 共産主義といえば冷笑
提到馬列主義就嘲笑 マルクス・レーニン主義といえば嘲笑い
提到社会主義就失笑 社会主義といえば失笑
提到為共産主義奮闘就哈哈大笑 共産主義のために奮闘するといえばどっと大笑い
ケ小平の「白いネコでも黒いネコでもネズミを取ってくるのがいいネコだ」という言葉は、改革解放後の中国で一躍有名になったものである。もともと、この名句は四川地方の諧謔で、劉伯承元師のところからケがこの譬えを聞いてきたとも言われている。その後、この名句の意味はだんだんと普遍化し、さまざまな冗談を生んだ。
不管白狗黒狗、跟着老ケ就是好狗
白いイヌでも黒いイヌでもケについているイヌ(走狗)はいいイヌだ
不管土猫洋猫、能管好企業就是好猫
原種のネコでも外来種のネコでも企業をうまく運営できればいいネコだ
不管白馬黒馬、能 銭就是好馬
白いウマでも黒いウマでも競争に勝って銭を得るウマはいいウマだ
老猫不是白猫黒猫、是個不逮老 的紅猫
ネズミを取らない老ネコは白でも黒でもなく紅いネコだ
50年代人愛人 50年代は人が人を愛した
60年代人恨人 60年代は(文革の嵐のなか)人が人を恨んだ
70年代人圧人 70年代は人が人を抑えた
80年代人欺人 80年代は人が人を欺いた
90年代人吃人 90年代は人が人を食った
「報喜不報憂」、つまり国家にマイナスになるニュースは一切伝えない。記者も「歌功頌徳」、つまり政府の功積と徳政を讚えることしかない。「家醜不可外揚」で、外聞の悪いニュースは外に漏らさずに闇に葬る。真実を伝えないだけでなく、政治や政策遂行のためにウソのニュースを伝えることが一般的なのだ。そんな新聞への諧謔には次のようなものがある。
北京日報騙北京、人民日報騙人民 北京日報は北京市民を騙し人民日報は人民を騙す
解放軍報騙軍人、光明日報不光明 解放軍報は軍人を騙し光明日報は光明でない
遵命新聞多、社会新聞少 新聞には命令ばかりで社会のことは少ない
訓人文章多、道理文章少 文章には説教ばかりで道理を説くものは少ない
記者文章多、読者文章少 文章は記者のものばかりで読者の声はない
小報抄大報、大報抄簡報 小さい新聞は大新聞から写し、大新聞は会議記録から写す
簡報領導出、中央発号召 会議記録は指導部が出し、中央政府がその命令を下す
頭等記者売情報、二等記者炒股票 一流記者は情報を売り二流記者は株に浸かる
三等記者売版面、四等記者拉広告 三流記者は紙面を売り四流記者は広告を取る
五等記者撈紅包、六等記者写外稿 五流記者は謝礼を取り六流記者は記事以外の原稿を書いて稼ぐ
工厳有三防、防火、防盗、防記者 工場は火災、盗難、記者を防止する
中国人は自分の都合によって虚構をつくるのは当然の権利だと考えているため、国内にはそれを非難する人さえいない。すべてはウソで固められた社会である。そこで生きていくためには、自分もウソで武装しなければならない。
一個和尚挑水喝 一人の和尚は天秤棒で二つの水桶を担ぐ
二個和尚 水喝 二人の和尚なら天秤棒で真中にひとつの水桶を担ぐ
三個和尚没水喝 三人の和尚になると互いに水桶を押しつけあって飲み水がほしくなる
一個中国人是一条龍 一人の中国人は一匹の龍
三個中国人是三頭豚 三人の中国人は三匹のブタ
幹部、班長肥、三千職工三千賊
幹部はかっぱらい、班長は肥り、3000人の労働者はみな泥棒
十個厳長九個撈、還有一個酒裡泡
10人の工場長のうち9人が私腹を肥やし、残りの一人は泥酔中
「中国は泥棒だらけ」「三千職工三千賊」とも言われる。しかし、職工が会社から何かを盗んだところでたかが知れている。それを皮肉って、「工人天天都作賊、不如厳長撈一回」という諧謔もある。職工が毎日泥棒しても、工場長がかっぱらう一回分にも満たない、という意味だ。中国語ではカナダのことを「加拿大」と書く。それをもじったジョークが次のものだ。
外国有個加拿大、中国有個大家拿
外国にはカナダという国があり中国は皆かっぱらい
不要白不要、不拿白不拿
同じいらないなら貰わなきゃソンソン、盗みはしなくちゃソンソン |