石洞美術館

20064月に開館したばかりの私立美術館。
京成線 千住大橋駅から歩いて二分のところにあります。
淡平本社工場が京成線青砥駅ですから歩く時間を含めても20分以内で行く事が出来ます。
身近なところに素晴らしいコレクションの美術館が出来ました。



主な展示物は中国の玉 ガンダ−ラ仏 日本 韓国 中国 東南アジアの陶器など。
埴輪のコレクションが充実している事に驚きます、私は埴輪に知識がなくしたがって興味も無かったのですが今回初めて実物を目にして感動しました。
埴輪ってすごいですね、いいものだなと感じました。
素焼きしただけの簡単な彫刻ですが驚くほどの存在感、古代の魂が感じられます。
正面から間近に見つめると見つめ返され緊張しました琴線に触れるのです。
他にも砧青磁 金の赤絵 明の染付け 李朝陶器など名だたる名品ぞろいですが、やはり日本人なのでしょう古墳時代の埴輪に一番興味がそそられました。
私は埴輪の美を皆さんにお伝えできるほど博学ではありませんので陶磁大系(平凡社)の埴輪より参考となる資料をご紹介します。

「埴輪は日本の古墳時代に、ある集団の工人達が製作した、素焼きの土製品である。その質は、同じ時代の土師器にと似ていて、厚手でやわらかく、吸水性があり、赤みを帯びた明るい色調に焼き上げた物が多い。しかし中には須恵器に似て堅く、くすんだ灰色に焼いた埴輪もありその焼成技法の系統は、必ずしも単一ではなかった事を暗示している。いずれにしても、埴輪は、死者を葬った後の古墳に飾り立てておく事を唯一の目的として作ったものである。したがって埴輪はもともと、実用というよりは、装飾的な性格をそなえた土製品であった。

埴輪は古拙な彫刻として、鑑賞の対象になる。彫刻として古拙であるというのは、埴輪の造形が、実写性を最高の理想とはしていないからである。埴輪には実写的表現に徹して、鑑賞する人に作者の目をおしつけるような作風の物は無い。むしろ、実写という観点からいえば、不完全な表現を用いて、鑑賞する人の自由な理解に期待を寄せる、という態度をこのんだ作風の彫刻である。埴輪を見る楽しさは、この、理解の仕方の自由さから生まれる。
埴輪の古拙美といえば、更に重要なのは、その顔の表現方法であろう。俗に卵に目鼻という言葉があるが、人物埴輪の顔は、こまかい突起を持たぬ球状に作って、その曲面にただちに目鼻をあらわしている。しかも、目と口は大胆に箆で切り取ってある。鼻と眉は球面に粘土をはりつけて示している。なかでも人物埴輪を特色付けるものは、その目のあらわしかたであろう。うつろな目と言えば、何を見ているのか解からないような放心した人の表情をいう言葉であるが、埴輪の場合は文字通り、うつろに切り抜いた目が、実は生き生きとした表情をたたえているのである。かつて和辻哲郎博士は、このような人物埴輪の目のあらわしかたは、それが古墳に立てられて、明るい日を浴びたときに、望ましい効果を発揮させるためであろうと説いた。それも一つの見方であろう。ただ、古代の葬儀が夜間の行事であるならば、このうつろな目にも、かがり火のゆらめく炎に照らし出されて、微妙な陰影の動きを生む事を求めたのではないか、そうとも考えてみたくなるのである。
いずれにしても多くの人物埴輪を比較してみると、その顔の表情が、すこぶる変化に富んでいることに驚くのである。緊張した顔、おどけた顔、すました顔、はにかんだ顔、悲しげな顔、笑っている顔、あどけない少年の顔、落ち着いた大人の顔、さらに色々な顔を見出す事が出来るのである。
しかもよく観察してみれば、それは主として、切り取った目と口、貼り付けた眉と鼻などの、それぞれの形の違いと、配置の違いによって、半ば偶然に生じた事である事が解かるのである。そうして、それを見つめる我々が、こういう目鼻の配置は、こういう表情をあらわすものだときめてかかっている傾きもある。はたして埴輪の製作者が、それぞれの表情を意識的に表現しようとしようとしたかどうかは、簡単には断言できないであろう」