鹿苑寺

所要の為京都に来ています、中学の修学旅行以来ですから34年ぶり、このさい金閣鹿苑寺を訪れましたが実に懐かしく感動いたしました、当然の事ですが往事と変わらず古格豊かな佇まいでした。
足利義満ゆかりの金閣は茶道の盛んな所でもありここで抹茶を頂きました。
こちらの方も34年ぶりで当時は美味しいと思わなかった抹茶が実においしく私も少しは進化しているのだなと思ったものです。
油滴天目茶碗で頂きました、義満の時代には後の名物、志野や唐津はなく唐物一色ですから時代考証もバッチリで実に気持ちが良い。



鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院。寺名は足利義満の法名にちなむ。通称金閣寺(きんかくじ)、山号は北山(ほくざん)。1994年(平成6年)に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。中心となる建築物である舎利殿を「金閣」、寺院全体を「金閣寺」と通称する。
この地には、鎌倉時代の1224年(元仁元年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘(「北山第」)を営んでいた。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有していた。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。
1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれた。邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。1394年(応永元年)、義満は征夷大将軍を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を行っていた。義満の死後、義持によって北山殿は舎利殿を残して解体されるが、義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院」から鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)としている。
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                               2009−9−14