新田義貞

龍ヶ崎をドライブしていると金龍寺なる古刹が有り、ここに竹林に紛れるように新田義貞の墓が有った。
金龍寺は南北朝時代に南朝方の武将として活躍した新田義貞の裔流、由良国繁が天正18年(1590)豊臣秀吉によって上州太田から牛久移封され、菩提寺であるこの寺もそれにともない牛久をへて新地に移転された。さらに、由良氏没後の寛文6年(1666)には、末寺の有った現在の地に義貞と一族の墓や寺宝の曹洞宗の開祖道元が宋から請来した絹本着色一六羅漢像が移され供養されている。





以下ウィキペディアより
新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。
鎌倉幕府を攻撃して滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立。尊氏が建武政権に反旗を翻すと後醍醐天皇の尖兵としてこれに対抗、各地で転戦するが、箱根や湊川での合戦で敗北、後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利家と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。













 2013−7−29