無作為

無作為とは「作為が無い事。偶然にまかせること。また、そのさま」と説明されます。
それでは作為とは?
「あることに見せかけようと、わざと人の手を加え手直しをする事。ことさらに手を加えること。つくりごと」と説明されます。
ある領域の芸術哲学において無作為こそ至高の芸術領域だと言います。
しかし人間が作るものにおいて本当の無作為などあり得るのでしょうか、大自然と違って (いや大自然にこそ美神の御意志があるのだ) 人が関わる以上そこには必ず作為が生まれると思います。
無作為を意識した作為が生まれるのです。

民藝哲学の柳宗悦は無作為(無意識)を以下のように説明します。
「使用中、その文様など殆んど人目につかないはずなのに、
陶工達はその表面に誘われてか、鉄絵、緑彩で花鳥風月他
夥しい文様を描いた。

日本人の真の創造は元を忘れた所にあった。繰り返しの結果は
草を想わずして草を描き、鳥を想わずして鳥を描く。
遂には牛を想って馬を描く。元を忘れた所に新しい命が芽生え出た。
これが凡ての民画の共通の性格だった。行灯皿の絵は無意識の所産であり、
無意識からのみ生み得た絵だった」(雑器の美 柳 宗悦)
                 引用資料    別冊 太陽 柳 宋悦 

私ごときの発言ですが、私には上写真の行灯皿の文様が無作為(無意識)にはとても思えません。

先日中国の写真下の壺を発見した時、私の中に衝撃が走りました。
本当の無作為に見えたのです。
宋代から元にかけての中国の日用品らしいのですが、このいい加減な釉薬の掛け方、何を書いているのか解からない鉄絵、柳宗悦の言う究極の手慣れです。
この壺を作っていた時の陶工の頭の中は空っぽ、何も考えてないように感じます、本当に無作為って有るんだと思った瞬間でした。







      2018-6-1