「もの造り大国 日本」
長びく不況の中で、“失われた10年”なる表現は現状を良く現している様に思われている。
訳りやすいし語呂が良いので流行語となった。
この失われた10年と言う言葉を最初に使ったのは人気作家の村上龍であると言われている。
人の心を上手につかんだ。人気作家、面目躍如。超一流のコピーライターである。

 日本国は本当にこの10年間でムダに多くのものを失っただろうか。
 確かに国の借金は膨大となり、子子孫孫にまで大きな負担を残している。
年金の破綻はまぬがれそうもない。
しかし、それ以外に何か悪いことでもあっただろうか。 資産価値の下落は市場経済ではしかたのない事ではないのか。
物の価値は上がったり下がったりしてあたりまえだ。 あなたの買った車が10年してタダ同然になっても文句は言うまい。
土地も株も給料も同じ事だ。
無条件に上り続けると考える事の方がおかしい。 いったいいつ誰がそんな事を保障したのだろう、今までが幸運だったのである。
私はこの10年で日本の企業は大きく進歩したと思う。
厳しい経営環境にあったからこそ一段と進歩した。 確かに勝組と負組は出たが、一競争社会ではいたしかたない事であるとも思う。
私の同業者でも一昔前より良い物を安く提供してくる。
こだわりのある良い物だ。
努力した業者は今日の荒波の中でも立派にやっているのである。
 解りやすい例だが、トヨタやホンダ、ニッサンを見ればよい。
血のにじむ努力をしたのだろうが、この10年であきらかに進歩しているではないか。
今の三菱自動車を見て“失われた10年”の傷残とでも言うのか。
あんなものは今風に言えば自業自得、自己責任である。

 西浦裕二著「経営の構想力」東洋経済新報社刊の中に次のような一節がある。
『日本の競争力を支えた理想的な人口構成「人口ボーナス期」。
30年代の日本は、子供が多く、年寄が少ないピラミッド型の人口構成であった。 それが60年代から少子化傾向が強まり子供の数が少なくなってきた。
高齢化はまだ深刻ではない。
一方で働く人の比率がどんどん高まり、経済発展という観点からは極めて理想的な人口構成になっていた、という。
人口構成が経済成長に「ボーナス」を提供していたのである。
こうした時期においては「真面目に働きさえすれば、特に優秀な集団じゃなくても二ケタの高度成長は自然に達成される。」』
以上のような内容である。
つまり
“作れば売れた時代はたしかに存在した。この事は統計学上も証明できる。” と言う事だと思う。
上記のような時代は終わり、日本は名実ともに先進国の仲間入りをした。 若い社会から成熟社会へと移行したのである。
この大きな折返し点、折返し期間が世に言う“失われた10年”なのではないだろうか。

 先日有楽町のビックカメラ内をうろついていた。 地下鉄との連絡口B2は、デジタルカメラ売場で沸騰するような熱気である。
このデジカメを見て日本の物造りが後退した、物造りの時代は終わったなんて、どこのだれが言うのだろう。
DVDレコーダーを見ても、薄型テレビを見てもほれぼれするではないか。
一番感心したのは、実はキャノン イオス キス5 である。フィルムカメラだが、一段と完成度が上がっている。
この完成度はチョットすごい。
どこがどうと説明するのは難しいが、これは長い物造りの賜と言うよりほかはない。
他国がまねしようとしても、なかなかむずかしいだろう。
もともとはアメリカのPCメーカー デルの経営のすごみは言葉では伝えられないとして言われた言葉だが、これはキャノンにも通じると思う。
伝説のバスケット選手 マイケル ジョーダンに例える。
『見た。理解した。だけど真似できない。』