小谷カメラ修理店 3
 柴又は、カメラ造りの町であった。今の寅さん記念館は、カメラ部品工場の跡地であると言う。
高砂へ貫ける街道には昭和光学が、さらにその周辺には中小の町工場があった。そうした町も大きく様変わりする。1959年レオタックス(昭和光学から社名変更していた)が、倒産したのである。この少し前、ニコンはFを、キャノンはPを、さらに他の大手メーカーも廉価でよく写るレンズシャッター機を大量生産しはじめていた。技術の転換期であったのである。手造りに近いカメラ造りを行っていたメーカーは、生き残る事が出来なかった。この時期、ニッカ、アイレス、ワルツ、レオタックスなどの中堅メーカーがあいついで消えていった。地味ながら良心的なカメラ造りを行っていただけに残念である。
レオタックス倒産を期に小谷氏は、修理業として独立する決心をする。倒産時の混乱の中、捨てられそうになっていた大量の部品を、退職金がわりに持ち出した。山積みのリヤカーを引いてようやく自宅へたどりついた。明日からは、一国一城の主である。
 ライカ型フォーカルプレーン機の修理依頼は当初はかなりあったらしい。順調なすべり出しであった。しかし、1970年代中頃から、カメラはどんどん電子化され仕事が減っていく。機械技術で直せる機種も、ほとんどが廉価なレンズシャッター機であったと言う。100台集めてフォーカル機は1台あるかないかであったそうである。
レオタックスはライカ型フォーカルプレーンシャッター機しか造っていなかった為に、小谷氏にはレンズシャッター機を直す技術が無い。仲間をたよってようやく技術を身に付け、細々と修理業を続けていた。元々が廉価なレンズシャッター機であった為に、高い修理代が取れるはずもなく、夜中までの作業で数をこなさなければならなかった。精一杯やって、一日6台、これが限界であったと言う。
小谷氏にとって、一日6台と言う数字は、多少なりともプライドであるようだが、小岩には一日12台こなす名人がいて、うらやましく思ったそうである。それでも生活は苦しかった。
80年代に入れば、こうした機械式レンズシャッター機も姿を消しただろう。小谷氏の店も、風前の灯びであった。しかし、ちょうどその頃、2人のお子さんがそれぞれ大学、短大を卒業し、肩の荷がおりた。
 葛飾区のカメラ店をまわって歩いて注文をとる。あまりよい思い出は無いようで多くを語らない。
青戸駅前に昔からあるカメラ屋の主人が、小谷氏を知っていたと言うと、少しこわい顔をした。小谷氏の様な仕事に、世間は冷たかった時期があるのである。
「20年前は、ほんとうにつらかった」と言う。
 90年代、クラシックカメラブームがやって来る。小谷氏の技術は見直され、尊敬されて再び世の中の注目をあびた。今や、新聞、雑誌、TVに数十回登場した有名人である。
「もう少し早くブームがくればなぁ」
「もうけそこなった」
「今では数をこなせない」
「金には縁がないのだなあ」
訪れるたび聞いた、小谷氏の言葉である。
 昔の事を語るとき、楽しそうなのにどこか力が無い。80年代の苦労がしみついてしまっているのである。
小谷氏は、自分の技術をもっと誇ってよいと思う。
 1998年10月、小谷氏は入院した。
翌年の3月にお会いしたときに氏は言う。
「そろそろ年貢の納め時かな」
「初期のアルツハイマー病なんだと、確かに仕事の能率が上がらないねえ」
私は元気を出す様に言う。
そして、私の持参したカメラを手渡すと、8月の完成を約束して別れた。
 まだまだ元気に仕事を続けてもらいたい。
そしてその事が、病気の進行を遅らせる唯一の手段なのである。

 店先に、コタニカメラメインディングの看板が掲げてあるが、NTT104では、小谷カメラ修理店で登録されている。