小谷カメラ修理店 2
こんどは、昭和光学に、日本光学(現ニコン)の人がやって来た。
日本光学は、新たにカメラの製造を計画していた。その為の勉強に、昭和光学をおとずれたのであった。意外に思われるかも知れないが、日本光学は、カメラ造りに関しては、最後発である。現存するカメラメーカーの中では、最も若い。それでは、それ以前になにをしていたのかと言えば、日本軍の為の、様々な光学兵器の開発・製造で、国内最大手の国策会社なのである。その日本光学が、カメラ造りに対しては、まったくのド素人であったのである。
(ところで、日本光学の最初のカメラ、ニコンT型は、光が漏れる事がある事で有名である。光が漏れてしまうカメラなど、もはやカメラとは言えない。)
木造平屋、土間の工場が、どれほど参考になったものかと、小谷氏は謙遜する。しかし、しばらくの間は、あの天下の日本光学が見習いにやって来たと言うので、大さわぎであったそうである。社員の志気も上り、たいへんな活気であった。当時の工場長は、晩年までニコンにカメラ造りを教えたのは、自分であると、口ぐせになっていたと言う。
その後のニコンの発展は、周知の事だが、当初は、カメラ造りに対して、下町の町工場以下であった事になる。昭和光学には30名程の工員が、働いていた。最終的にも、60名ほどであったと言う。