小谷カメラ修理店 1
 柴又寅さん記念館の裏に、コタニカメラメインディングと言うカメラ修理店がある。
モダンな店名であるが、店主は絵に書いた様な職人である。店主は戦後間もなく、父が勤めていた昭和光学に就職する。当時は就職先も無く、自分は運が良いと喜んでいたそうである。
 昭和光学は、戦争中工場を日暮里から柴又へ疎開していたため、戦災を免れた。しかし、小谷氏が就職した当初は、戦中戦後の物不足から機械はガタガタ、工場はボロボロであったと言う。
 戦後しばらくの間は、戦中の残った部品を組立てて生計を立てていたらしい。その中に99式極小航空写真機もあったそうである。
このカメラは、皇紀2099年に日本陸軍の要請で、小西六(現コニカ)が設計、子会社の六桜社で製造された航空カメラである。スプリングによる自動巻上げで、1回に12枚の連続撮影が可能であった。フォーマットは6×6である。
 中国大陸爆撃の様子のほとんどは、このカメラで撮影された物である。実際かなりの量が造られた様で、六桜社で数千台、東京光学でもほぼ同数造られている。
 この99式極小航空写真機を、小西六の出身であった昭和光学の創立者が、小西六の下請けの様な形で組立てていたのである。この99式は、戦後米軍に大量に接収され、朝鮮戦争で大活躍するのである。軍事物資と言う限られた世界の話であるが、日本で作られたカメラの中で、最初に名機の誇りを勝ちとった歴史的カメラと言える。
 戦災をまぬがれた為、いち早くカメラの生産を再開出来た昭和光学に、ある日GHQの軍人がやって来た。残っている99式の部品をひとつ残らず組立て、米軍に納入するようにとのことだった。大量に残っていた部品で一部手直おししながら、かなりの量を納めたらしい。これによって昭和光学は一息つくことが出来たのである。
 小谷氏は、その時の余った部品(フィルムマガジンの裏蓋)を、今も修理部品の小物入れとして使っている。言われなければ気が付かないが、話を聞いた時は、なつかしそうに裏蓋をなでていた。