国産カメラの黄金期
 1970年代の日本製カメラは、世界の頂点に立った。
戦前から、ドイツに追い付け追い越せでやって来た国産メーカーは、ニコンFで追い付き、1971年のキャノンF−1、ニコンF2で追い越した。
この2台は、あらゆる点でライカを越えている。システムの充実、耐久性、ブランドイメージでも、もやはライカの上であった。横走りフォーカルプレーンシャッターの完成も技術的に意味がある。ライカシャッターのコピーを脱してなおかつ、耐久性を向上させている。ニコンはニコンなりの、キャノンはキャノンなりの解答であった。優劣はない。
この時期は他のメーカーからも、魅力的な製品が相次ぐ、オリンパス、ペンタックス、ミノルタ、フジ、コニカ、トプコンなどが個性を競った。機械カメラ製造、熟練の極致であった。米軍の基地前に有るポーン・ショップ(質屋)に、米兵がライカを持ち込み、それでニコン、キャノンを買って行った時代である。ポーン・ショップでは、安価なライカがゴロゴロしていた。米兵はブランドを信仰しないから、むしろ本質的に良い物を見抜く力を備えているのである。
 機械技術の頂点を極めれば、あとは世代交替がまっている。カメラの電子化がそれであった。ライカがM型で経験した事を、国産カメラ産業は経験する。しかし、ライカの時と違って、それらの革新は自分達の内部からやって来た。
1976年のキャノンAE−1が最初の成功例である。製造技術の革新もともなって、桁違いの生産量を記録する。一眼レフが大衆化した瞬間であった。安くて高性能、おまけに使いやすい、魔法のようなカメラである。したがって、またたく間に市場を席巻して行った。
発売後1年半で、積算100万台に達し、瞬間風速で月間17万台と言う、前代未聞の量産記録を達成し、最終的な積算では1100万台を出荷し、現在のキャノンのカメラ事業の骨格をつくった。
したがって、珠玉の70年代機械カメラであったが、意外に短命に終わっている。
電子化と言う技術革新がなければ、20年30年造り続けられてもおかしくない完成度であったにもかかわらず、伝説に色どられる事もなく終わった不運のカメラにも思えて来る。
1981年までキャノンF−1は造り続けられたが、「完成された普通のスペック」を理解できる人間も少数派となり、翌年電子化されたNewF−1に取って替っている。
「究極の完成を見る時、それは同時に新たな時代の始まりを意味する。」