金沢城公園

言わずと知れた金沢城です。
あいにくのお天気でしたが雨に濡れる満開の桜は色気があり案外良いものだと思いました。
それにしても今年は桜を長きにわたり鑑賞しました、初めは横浜から始まり一週間後に千葉県佐倉の桜を満喫さらに一週間後に東京が満開、桜散らしの低気圧ですっかり桜の季節も終わりと思ったところ金沢の桜は満開です。
今は幹線道路になった内堀を満開に染める姿は江戸時代そのままです。













有名な鉛の瓦、有事の際には鉄砲の弾に変身の予定です、火薬は加賀藩の隠れ工場、白川郷の縁の下で作られていました。
今でこそ世界遺産の白川郷、当時は秘境に隠れる工場群とは驚きです。

金沢城HPより
天正11(1583)年、前田利家が金沢城に入り、その直後から本格的な城づくりが始められました。
キリシタン大名として知られる高山右近を招き、築城の指導を仰いだと伝えられています。
西丁口から尾坂口へと大手が変更されたのもこの頃です。
しかし、当時は城内に重臣たちの屋敷があり、決して広い城ではありませんでした。
慶長7(1602)年、落雷により天守閣が焼失した後、天守閣は再建されず、本丸には三階櫓と二の丸には御殿が建てられました。
寛永8(1631)年の火災の後、二の丸の拡大や辰巳用水の通水などにより城の構造が変化するなかで、武家屋敷も城外へと出されました。
内堀を掘り、土を掻き上げて各曲輪が区画されていきました。
宝暦9(1759)年の火災では、城のほとんどを焼失しました。
その後の再建では、実用性を重んじ、二の丸を中心とした整備が行われ、本丸の櫓は再建されませんでした。
細工所が新丸から堂形へ移されたのもこの時期です。現存する石川門は、この後天明8(1788)年に再建されたものです。
平成13年に復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓は、文化5(1808)年の二の丸火災の後再建され、明治14(1881)年の火災で焼失したもので、安政頃の景観を再現しました。
   2015-4-24