鉛 筆
2000年8月7日、読売新聞江東版に、東京下町地場産業の一つとして、鉛筆に関する記事があった。
あまり知られていない事だが、鉛筆作りは、東京を代表する地場産業なのだそうである。特に、町屋・尾久を中心とする荒川区は、約20件の業者が今も鉛筆を作りつづける、有数の生産地なのだそうである。
関東大震災以前、鉛筆作りは、現在の墨田・文京・台東区に多かった。鉛筆作りは、木材を乾燥させる場所や、倉庫など、広い土地が必要である。震災で焼け出された業者は、当時まだ郊外の農村地帯で、地価の安かった町屋周辺に移転していったのである。
その内の一つ、キリン鉛筆に読売の取材が入った様である。工場内には、50年近く前の機械がならぶ。社長の年齢ほどではないが、ほぼ半生をともにすごした機械達は、修理されながら今も現役である。鉛筆と言うと、我々は、大手有名メーカーの物ばかりを思い出すが、昭和51年には、区内で70軒を上まわる業者を輩出した、一大産業であった様である。
子供の頃おせわになった、かきかた鉛筆や、アニメのヒーローたちが、かっこよく印刷された鉛筆達は、みんなこうしたメーカーが作り出した物だったようである。
数年前に、沖縄宗元寺前の文具店で、キリン鉛筆を購入した。息子と娘をつれて、家内の里帰りの際中ひまにあかした散歩の途中、古びた文具店に入ったのである。店内の鉛筆コーナーは、キリン鉛筆一色であった。荒川区の鉛筆が、どういうルートで日本の南端沖縄までたどりついたのか、考えると面白い。大阪の問屋が、復帰以前の沖縄に大量に持込んだのであろうか。あるいは、荒川区の同業者組合による、売込みの結果だったかも知れぬ。