AIを観て泣いた(アメリカ映画・スピルバーグの作品です)
 未来のある時点で人類は完璧な学習能力を有するコンピューターを発明する。機械技術と含まって、生み出されたロボット達は、商品として人間社会に深く根づいていった。家族の代用としても利用可能な高度なロボットは、寝たきりの息子を持つ家族にさびしさとまぎらわせる為の、息子の代用として購入される。
 やがてこのロボットはバージョンアップのソフトウエアーによって家族を愛する様になる。とくに母には強く愛されたいと心から願う様になった。映画の中で人間とロボットの差は少ない。よほどロボットの方が人間らしくある。今や人間とロボットを隔てるものはその身体的(肉体的)ハンディキャップ以外には無い。いや、この身体的ハンディキャップこそ決定的であり、超える事の出来ない大きな壁である。 どんなにロボットが人間の様になりたいと願っても、血を別けた家族を持つ事は出来ないのだから。
 ところで現実の最新型コンピューターでも計算(理解)出来ない事がある。超スピード・正確・万能であるにもかかわらず。コンピューターには孤独を理解する事が出来ない。期待と言う概念を利用するプログラムも無い。コンピューターは所有する事が出来ない。
 以上の事柄を一言で言ってしまおう。コンピューターは他者を愛する事が出来ない。今のコンピューターは心を持たない事が限界であると同時に、身体を持たない事がその限界なのである。
 人間が環境を持続的、連続的に理解し分析なしに支配できるのは、身体のおかげなのである。今日、行き詰まっているAI研究者達は次ぎの様な言い訳をいつも用意している。
「コンピューターも身体を持つ事になれば、独自の進化を始める可能性がある。」
 多くの学者はそれでもAIに懐疑的だ。しかし一方で20世紀末に誕生した2足歩行ロボットが後の科学技術の転換点であったと、後世の科学者は思う事になるかも知れない、とも思う。今日のAI研究は中世における練金術かもしれない。つまりAIなど本来、根本的に不可能な技術かもしれない。しかし同時に、中世の練金術が後の化学を大きく発展させるキッカケをつくった事を忘れてはならないだろう。
 AIの未来は遠い。その地平ははるか彼方にありしかも加速度的に遠ざかっている。
 私はSF映画が好きで、今日まで多くの作品を楽しんできた。SF映画が好きな理由はその描かれた未来がもしかしたら実現可能であるかも知れないと感じさせ、将来を夢見るからである。車が空を飛んだり、地球人以外の宇宙人と友達になったり、恒星間旅行をしたり、地底人だってもしかしたらいるかもしれないじゃないか。
 しかしAIに関しては、おそらく実現不可能な未来である。したがってこの物語りはおとぎ話そのものであり、登場人物に女神様や得体の知れない生物が出て来ても問題ない。場合によっては、象が耳で空を飛んでも英語を話す黒ねずみが登場してもOKだ。(話がかなり脱線している)ストーリーに戻ろう。ロボットは愛するがゆえの別れの恐怖を予感する。そしてその時が来た。植物人間であった本物の息子が病の淵から生還する。かってな人間はロボットがじゃまになってしまう。しかし製造メーカーに返品すればスクラップになってしまう。
 ※実際にはメーカーによって追跡調査されているのだが、母はこの事を知らない。
 ロボットとは言えそれはしのびないと山へ捨てる決心をする。そして孤独に。友情を知り、希望を知る。努力して希望をかなえようとする。絶望し自殺しようとする。(なんと人間的であろうか)ロボットは来る日も来る日も祈りを続けます。
 ”女神様僕を人間にして下さい。(なんと彼は自分が愛されない訳を知っていた!)お母さんに愛されたい。ただそれだけでいいんです。”
 2,000年の月日が流れます。人類は絶滅して、物質文明の次なる世界が創造されていました。意志の世界。思考が物を動かし、心が世界を形造る世界。コンピューターのソフトウエアーの様な世界。今や人間とロボットを隔てたハンディキャップは存在しません。そして少年ロボットはついに夢をかなえる時が来ました。
 (あとは自分で観て下さい)
 最後にダニエル・C・デネット著「解明される意識」の中の一説を紹介する。
 人間の意識は、神秘のまさに最後の生き残りである。神秘というのは、それについてどう考えたらよいのかまだわからない現象のことであるが、これまでも、大きな神秘はまだ他にたくさんあった。宇宙の起源という神秘、生命と生殖という神秘、自然界に見出される計画性という神秘、時間と空間と重力という神秘、などがそれである。これらの神秘は、科学的無知の領域でもあれば、文字通り当惑と驚異の領域でもあった。私達はまだ宇宙論の問題、素粒子論の問題、分子遺伝学の問題、進化論の問題のどれにも最終的解答を見出していないが、これらについてどう考えたらよいのかは、すでにわかっている。これらの神秘は絶滅したのではなく、飼いならされたのだと言ったらよい。こうした神秘が当の現象について考えてみようとする私達の努力を完全に挫けさせてしまうことはもはやない。私達は、今では間違ったと問いと、正しい問いを見分ける事ができるようになったし、かりに現在正しいとされている解答のいくつかが完全に間違っていることがわかったとしても、どのように方向転換したらもっとすぐれた解答が求められるのか、すでにそれも心得ているからである。ところが意識となると話は別で私達はまだ恐ろしい泥沼を脱することができないでいるのである。今日、しばしば人に混乱を与えて最もうるさい思想家の口さえつぐませてしまうテーマとして聳えているのは、ひとり意識のみである。